へて元の蒲団の上へ戻つて来た。
「そんなことはないでせう、私達もこんな所に一箇月もをると、何か纒まりさうな気がしますよ、」
「一箇月でも二箇月でも、お気に召したら、一箇年もゐらしてくださいまし、こんなお婆さんのお相手ぢやお困りでございませうが、」
女はかう云ひ云ひ卓の上に乗つてゐる黒い罎を取つてそれを傍のコツプに注いでそれを省三の前に出し、
「お茶の代りに赤酒を差しあげます、お嫌ぢやござんすまいか、」
「すこし戴きませう、あまり飲めませんけれど、」
「女中を呼びますと、何か、もすこしおあいそも出来ませうが、面倒でございますから、どうか召しあがつてくださいまし、私も戴きます、」
女も別のコツプへその葡萄酒を注いで一口飲んだ。
「では、戴きます、」
省三は俯向いてコツプを取つた。
「私は先生が雑誌にお書きになるものを何時も拝見してをります。それで一度、どうかしてお眼にかかりたいと思ふてをりましたところ、今日、先生の御講演があると家へ出入りの者から伺ひまして、どんなに今日の講演をお待ちしましたか、そして、その思ひがやつと叶つてみると、人間の欲と云ふものは何所まで深いものでございませう、
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