も判らなかつた。
「私と一緒にずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへ参りますと、狐に撮まれたやうにぼうとなるものでございますわ。本当に失礼致しました。こんな河獺の住居のやうな所へお出でを願ひまして、」
「どう致しまして、静かな、湖に臨んだ理想的なお住居ですね、」
 省三はその家の位置が判つたやうな気になつてゐた。
「これから寒くなりますと、締つきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしうございますわ、」
 女は起つて行つて省三から正面になつた障子を開けた。障子の外は小さな廊下になつてそれに欄干がついてゐたがその欄干の先には月がぼかされた湖の水が漂渺としてゐた。
「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでせうね、」
 省三は延び上るやうに水の上を見ながら云つた。女は障子へ寄つかかるようにして立つてゐた。
「真似事を致しますが、とても駄目でございますわ、」
「そんなことはないでせう。かう云ふ所にゐらつしやるから、」
「いくら好い所にをりましても、頭の中に歌を持つてをりません者は、駄目でございますわ、」
 女はかう云つて笑ひ声を立てたがそのまま体の向きをか
前へ 次へ
全37ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング