るために集つたのでせうが、もう、帰しましたよ、」
省三は水の上を見た。今までゐた鯉はもうゐなくなつて鉛色の水がとろりとなつてゐた。
「もう、ゐなくなつたでしよ、ね、それ、」
省三は呆気に取られて水の上を見てゐた。と一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがつて来てそれが白い腹をかへして死んだやうに水の上に横になつた。
「死んだんでせうか、あの鯉は、」
「あれは、先生に肉を御馳走した鯉でございますわ、」
「えツ、」
「いゝえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがつたでございませう。このあたりは、鯉が多うございますから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ、」
女はかう云つて惚れ惚れする声を出して笑つた。
四
省三は眼が覚めたやうに周囲を見まはした。青みがかつた灯の燭つた室で自分は黒檀の卓を前にして坐つてゐてその左の側に女が匂ひのあるやうな笑顔をしてゐた。
「私は、どうして此所へ来たでせう、」
省三はボートの中で鯉の群と死んだやうな鯉の浮いて来たのを見てゐる記憶があるばかりで、舟からあがつたことも路の上を歩いたこともその家の中へ這入つて来たこともどう云ふものかすこし
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