思ひ箸を動かした。
「今日は長いこと御演説をなされたさうで、お疲れでございませう、」
その女中の声と違つた暗い親しみのある声が聞えた。省三は喫驚して箸を控へた。其所には女中の顔があるばかりで他に何人もゐなかつた。
「今、何人かが何か云つたかね、」
女中は不思議さうに省三の顔を見詰めた。
「何んとも、何人も云はないやうですが、」
「さうかね、空耳だつたらうか、」
省三はまた箸を動かしだしたが彼はもう落ち着いたゆとりのある澄んだ心ではゐられなかつた。急に憂鬱になつた彼の眼の前には頭髪の毛の沢山ある頭を心持ち左へかしげる癖のある若い女の顔がちらとしたやうに思はれた。
「お代りをつけませうか、」
省三は暗い顔をあげた。女中がお盆を眼の前に出してゐた。彼は茶碗を出さうとして気が付いた。
「何杯食つたかね、」
「今度つけたら三杯目でございます、」
「では、もう一杯やらうか、」
省三は茶碗を出して飯をついで貰ひながらまた箸を動かしはじめたが、膳の左隅の黒い椀がそのまゝになつてゐるのに気が付いて蓋を取つてみた。それは鯉こくであつた。彼はその椀を取つて脂肪の浮いたその汁に口をつけた。それは旨い
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