ないと思つた。
「あなたが先へお乗りなさい、私が漕ぎませう、」
「いゝえ、このボートは、他の方では駄目ですから、私が漕ぎます、どうかお乗りくださいまし、」
省三は女の云ふ通りにして駒下駄を脱いでそれを右の手に持ちやつとこさと乗つたが、乗りながら舟が揺れるだらうと思つて用心して体の平均を取つたが舟は案外動かなかつた。
続いて女が胴の間に乗り移つた。その拍子に女の体にしめた香水の香が省三の魂をこそぐるやうに匂ふた。省三は艫へ腰をおろしたところであつた。
女の左右の手に持つた二本の櫂がちら/\と動いてボートは鉛色の水の上を滑りだした。月の光の工合であらうか舟の周囲は強い電燈を点けたやうに明るくなつて女の縦模様のついた錦紗のやうな派手な羽織が薄い紫の焔となつて見えた。
「私が代りませうか、女の方よりもすこし力がありますよ、」
省三は眩しいやうな女の白い顔を見て云つた。女はそれを艶やかな笑顔で受けた。
「いえ、私はこのボートで、毎日お転婆してますから、楊枝を使ふほどにも思ひませんわ、」
「さうですか、では、見てをりませうか、」
「四辺の景色を御覧くださいましよ、湖の上は何時見ても好いもの
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