鯉こくがおよろしければ、お代りは如何でございます、」
省三は女中の声を聞いて鯉の椀を下に置いた。鯉の肉も味噌汁ももう大方になつてゐた。
「もう沢山、非常に旨かつたから、つい一度に食べてしまつたが、もう沢山、」
省三は急いで茶碗を持つて飯を掻き込むやうにしたが、厭やなことを考へ込んでゐたゝめに女中が変に思つたではないかと思つてきまりが悪るかつた。そしてつまらぬ過去のことは考へまいと思つて飯がなくなるとすぐ茶を命じた。
「もう一つ如何でございます、」
「もう沢山、」
「では、お茶を、」
女中は茶器に手を触れた。
二
けたたましい汽笛の音が静かな空気を顫はして聞えて来た。それはその湖の縁から縁を航海する巡航船の汽笛であつた。省三は女中が膳を下げて行く時に新しくしてくれた茶を啜つてゐたが彼の耳にはもうその音は聞えなかつた。彼は十年前の己の暗い影を耐へられない自責の思ひで見詰めてゐた。
それは自分が私立大学を卒業して新進の評論家として旁ら詩作をやつて世間から認められだした頃の姿であつた。その時も彼は矢張り今日のやうにこの土地の文学青年から招待せられて講演に来たが、一緒に来た二人の仲間はその晩の汽車で帰つて行つたにも関らず、彼一人はかねて憧憬してゐたこの水郷の趣を見るつもりで一人残つてゐた。
それは初夏のもの悩ましい若い男の心を漂渺の界に誘ふて行く夜であつた。その時は水際に近い旅館へわざ/\泊つてゐた。その旅館の裏門口では矢張り今晩のやうに巡航船の汽笛の音が煩く聞えた。
その夜は青い月が出てゐた。彼は旅館の下手から水際に出て歩いた。其所は湖と町の運河とが一緒になつた所で彼の立つてゐる所は石垣になつてゐるが、向ふ岸はもとのままの湖の縁で飛々に生えた白楊が黒く立つてゐてその白楊の下の暗い所から其所此所に灯の光が見えてゐる。彼は一眼見て、それは夕方に見えてゐた四つ手網を仕掛てゐる小屋の灯であると思つた。
湖の水は灰色に光つてゐた。省三は飯の時にめうな好奇心から小さなコツプに二三杯飲んでみた葡萄酒の酔が頬に残つてゐた。それがために一体に憂鬱な彼の心も軽くなつてゐた。
湖の縁は其所から左に開けて人家がなくなり傾斜のある畑が丘の方へと続いてゐた。黒いその丘は遥かの前に崩れて湖の中へ出つ張つて見えた。その路縁にも其所此所に白楊が立ち水の中へかけて蘆の
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