若葉が湖風に幽かな音を立てゝゐた。白楊の影になつた月の光の射さない所に一つ二つ小さな光が見えた。それは螢であつた。彼はその螢を見ながら足を止めてステツキの先を蘆の葉に軽く触れてみた。
 軽いゴム裏のやうな草履の音が耳についた。彼は見るともなく後の方に眼をやつた。其所には若い女が立つてゐた。女は別に怖れたやうな顔もせずに此方を見ながら歩いて来た。
(失礼ですが、山根先生ではございませんか、)
 女は頭をさげた。
(さうです、私は山根ですが、あなたは、)
(私は何時も先生のお書きになるものを拝見してをる者でございますが、今日はちやうど、先生のお泊りになつてゐらつしやる宿へ泊りまして、宿の者から先生のことを伺ひましたもんですから、)
(さうですか、それぢや何かの御縁がありますね、あなたは、何方ですか、お宅は、)
 かう云ひながら彼は女の顔から体の恰好を注意した。すこし受け唇になつた整ふた顔で細かな髪の毛の多い頭を心持ち左にかしげてゐた。
(東京の方に父と二人でをりますが、この先の△△△に伯母がをりますので、十日ほど前、其所へ参りまして、今日帰りに夕方船で此所へ参りましたが、夜遅く東京へ帰つても面倒ですから、朝ゆつくり汽車に乗らうと思ひまして、)
(さうですか、私も今日二人の仲間と一緒にやつて来ましたが、昼間は講演なんかで、このあたりを見ることが出来なかつたもんですから、見たいと思つて朝にしたところです、)
(それぢや、また面白い詩がお出来になりますね、)
(駄目です、僕の詩は真似事なんですから、)
(先生の詩は新しくつて、私は先生の詩ばかり読んでをりますわ、)
(それは有難いですね。ぢや、あなたも詩をお作りでせうね、)
(たゞ拝見するだけでございますわ、)
 さう云つて女は笑つた。
(詩はお作りにならなくつても、歌はおやりでせう、水郷は好いですね、何か水郷の歌がお出来でせう、)
(それこそほんの真似事を致しますが、とても、私なんかでは駄目でございますわ、)
 湖畔の逍遥から連れ立つて帰つて来た二人は彼の室に遅くまで話した。女は伯母の家で作つたと云ふ短歌を書いたノートを出して見せたり短歌の心得と云ふやうなありふれた問ひを発したりした。
(明日、私は、舟を雇ふて、××まで行つて、其所から汽車に乗らうと思ふんですが、あなたはどうです、一緒にしませんか、)
 話の中で彼がこんなこ
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