思ひ箸を動かした。
「今日は長いこと御演説をなされたさうで、お疲れでございませう、」
その女中の声と違つた暗い親しみのある声が聞えた。省三は喫驚して箸を控へた。其所には女中の顔があるばかりで他に何人もゐなかつた。
「今、何人かが何か云つたかね、」
女中は不思議さうに省三の顔を見詰めた。
「何んとも、何人も云はないやうですが、」
「さうかね、空耳だつたらうか、」
省三はまた箸を動かしだしたが彼はもう落ち着いたゆとりのある澄んだ心ではゐられなかつた。急に憂鬱になつた彼の眼の前には頭髪の毛の沢山ある頭を心持ち左へかしげる癖のある若い女の顔がちらとしたやうに思はれた。
「お代りをつけませうか、」
省三は暗い顔をあげた。女中がお盆を眼の前に出してゐた。彼は茶碗を出さうとして気が付いた。
「何杯食つたかね、」
「今度つけたら三杯目でございます、」
「では、もう一杯やらうか、」
省三は茶碗を出して飯をついで貰ひながらまた箸を動かしはじめたが、膳の左隅の黒い椀がそのまゝになつてゐるのに気が付いて蓋を取つてみた。それは鯉こくであつた。彼はその椀を取つて脂肪の浮いたその汁に口をつけた。それは旨いとろりとする味であつた。……省三は乾いた咽喉をそれで潤してゐるとその眼の前に青々した蘆の葉が一めんに浮んで来た。そしてその蘆の葉の間に一筋の水が見えて、前後して行く二三隻の小舟が白い帆を一ぱいに張つて音もなく行きかけた。舵が少し狂ふと舟は蘆の中へずれて行つて青い葉が舟縁にざら/\と音をたてた。薄曇のした空から漏れてゐる初夏の朝陽の光が薄赤く帆を染めてゐた。舟は前へ/\と行つた。右を見ても左を見ても青い蘆の葉に鈍い鉛色の水が続きそのまた水に青い蘆の葉が続いて見える。
(先生、これからお宅へお伺ひしてもよろしうございませうか)
若い女は持前の癖を出して首をかしげるやうにして云つた。
(好いですとも、遊びにいらつしやい、月、水、金の二日は、学校へ行きますが、それでも二時頃からなら、大抵家にゐます、学生は土曜日に面会することにしてありますがあなたは好いんです、)
(では、これから、ちよい/\お邪魔致します、)
(好いですとも、お出でなさい、詩の話でもしませう、実に好いぢやありませんか、この景色は、)
(本当にね、誰かの詩を読むやうでございますのね、蘆と水とが見る限りこんなに続いてゐて、)
「
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