か知りませんが、山根君に悪いことがあるなら、私が忠告します、おあがりなさい、飲んで吐くが好いんです、」
 細君はその水を飲み出した。省三はその傍へ坐つて悲痛な顔をしてそれを見てゐた。
 赤ら顔の医者が薬籠を持つてあがつて来た。医者は細君の傍へ行つて四辺の様をぢつと見た。
「吐きましたね、」
「吐いてます。まだ吐かしたら好いと思つて、今この茶碗に一杯水を飲ましたところです、」
 野本は手にしてゐた茶碗を医者に見せた。
「それは大変好い、」
 医者は今度は細君の方を向いて云つた。
「奥さん、大丈夫ですよ。御心配なさらないが好いんですよ、」
 細君は声をあげて泣き出した。
「先生、お恥しいです、」
 省三はやつとそれきり云つて眼を伏せた。
「どれくらいになりますか、」
「私が気が付いて、まだ二十分ぐらいしかならんと思ひますが、」
「さうですか、」
 医者は薬籠を開け小さな瓶を出してそれを小さな液量器に垂らした。
「水を持つて来ませうか、」
 野本が云つた。
「さうですね、すこしください、」
 野本は茶碗を持つて台所の方へ行つたがやがて水を汲んで帰つて来た。
 医者はその水を液量器の中に垂らして細君の口元に持つて行つた。細君は泣きじやくりしながらそれを飲んだ。
「これで大丈夫だから、静にしてゐてください、」
 かう云つて医者が眼をあげた時には省三の姿はもう見えなかつた。

          七

 省三はその翌日の夕方利根川の支流になつた河に臨んだ旅館の二階に考へ込んでゐた。
「関根さん、お連様が見えました、」
 関根友一は省三がこの旅館で用ゐてゐる変名であつた。省三は不思議に思ふて女中の声のした方を見た。昨日の朝銚子で別れた女が女中の傍で笑つて立つてゐた。女は派手な明石を著てゐた。
「吃驚なすつたでせう、なんだかあなたが此所へいらつしやるやうな気がしたもんですから、昨日の夕方の汽車で引きあげて来たんですよ、」
 女は笑ひ笑ひ這入つて来た。

 省三と女とは土手を下流の方へ向いて歩いてゐた。晴れた雲のない晩で蛙の声が喧しく聞えてゐた。
「いよいよ舟に乗る時が来ましたよ、」
 女が不意にこんなことを云つた。省三はその意味が判らなかつた。
「なんですか、」
「舟に乗る時ですよ、」
 省三はどうしても合点が行かなかつた。
「舟に乗る時つて、一体こんな所に勝手に乗れる舟があります
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