か、舟に乗るなら、宿へでもさう云つて拵へて貰はなくちや、」
「大丈夫ですよ。私が呼んでありますから、」
「本当ですか、」
「本当ですとも、其所をおりませう、」
 川風に動いてゐる丈高い草が一めんに見えてゐて路らしいものがそのあたりにあると思はれなかつた。
「おりられるんでせうか、」
「好い路がありますよ、」
 省三は不思議に思ふたが女が断言するので土手の端へ行つて覗いた。其所に一巾の土の肌の見えた路があつた。
「なるほどありますね、」
「ありますとも、」
 省三は先にたつてその路をおりて行つた。螢のやうな青い光が眼の前を流れて行つた。
「螢ですね、」
「さあ、どうですか、」
 黄ろな硝子でこしらへたやうな中に火を入れたやうな舟が一艘蘆の間に浮いてゐた。
「をかしな舟ですね。ボートですか、」
「なんでも好いぢやありませんか、あなたを待つてる舟ですよ、」
 そんな邪慳な言葉を省三はまだ一度も女から聞いたことはなかつた。彼は女はどうかしてゐると思つた。
「お乗りなさいよ、」
「乗りませう、」
 省三は舟を近く寄せようと思つて纜を繋いである所を見てゐると舟は蘆の茎をざらざらと云はして自然と寄つて来た。
「お乗りなさいよ、」
「綱は好いんですか、」
「好いからお乗りなさいよ、」
 省三は舟のことは女が精しいから云ふ通りに乗らうと思つてそのまま乗り移つた。舟の何所かに脚燈を点けてあるやうに足許が黄ろく透して見えた。
「いよいよ乗せたから、持つてお出でよ、」
 女はかう云ひながら続いて乗つて胴の間に腰をかけて省三と向き合つた。女の体は青黄ろく透きとほるやうに見えた。
「皆でなにをぐづぐづしてゐるんだね。早く持つてお出でよ、」
 省三は体がぞくぞくとした。と、舟は発動機でも運転さすやうに動き出した。
「この舟は一体なんです。変ぢやありませんか、」
「変ぢやありませんよ、」
「でも、機械もなにもないのに動くぢやありませんか、」
「機械はないが、沢山の手がありますから、動きますよ、」
「え、」
「今に判りますよ、ぢつとしてゐらつしやい、」
「さうですか、」
 女は大きな声を出して笑ひ出した。省三は怖る怖る女の顔に眼をやつた。黄ろな燃えるやうな光の中に女の顔が浮いてゐた。
「なにをそんなに吃驚なさいますの、」
 女の首は左に傾いて細かい沢山ある頭の毛が重さうに見えた。それは前橋の女の顔で
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