困つてをりました、」
「さうですか、それはちようど好かつた。飯はどうです、」
「まだです、あなたはもうお済みになつたでせう、」
「すこしくさくさすることがあつてまだです。何所か其辺へ行つて飯を喫はうぢやありませんか、」
「くさくさすることがあるなら、いつそこれから銚子へ行かうぢやありませんか、」
「さうですね。行つても好いですね、」
 二人は引ツ返して弁天堂の前の方へと行つた。

          六

 省三は電車をおりて夕陽の中を帰つて来たが格子戸を開けるにさへこれまでのやうに無関心に開けることが出来なかつた。
 彼は先づ細君がゐるかゐないかを確かめるために玄関をあがるなり見付の茶の間の方を見た。其所はひつそりして人の影もないので左側になつた奥の室を見た。
 細君の姿は其所に見えた。去年こしらへた中形の浴衣を着て此方向きに坐り団扇を持つた手を膝の上に置いてその前に寝てみる子供の顔を見るやうにしてゐた。
 彼はそれを見付けると、『うむ、』と云ふやうな鼻呼吸とも唸り声とも分らない声を立ててみたが細君が顔をあげないので仕方なしに右側の書斎へと這入つて行つた。
 暗鬱な日がやがて暮れてしまつた。省三は机の前に坐つてゐた。彼は夕飯に行かうともしなければ細君の方から呼びに来もしなかつた。その重苦しい沈黙の中に子供の声が一二回聞えたがそれももう聞えなくなつてしまつた。
 省三は気がつくと手で頬や首筋に止まつた蚊を叩いた。そして思ひ出して鉛のやうになつた頭をほぐさうとしたがほぐれなかつた。
 不思議な呻吟のやうなものが細々と聞えた。省三は耳をたてた。それは玄関の方から聞えて来る声らしかつた。彼は怖しい予感に襲はれて急いで立ちあがつて玄関の方へと行つた。
 青い蚊屋を釣した奥の室と茶の間との境になつた敷居の上に細君が頭を此方にして俯伏しになつてゐる傍に、若い女が背を此方へ見せて坐つてゐたがその手にはコツプがあつた。省三は何事が起つたらうと思ひ思ひその傍へと行つた。と、若い女の姿は無くなつて細君が一人苦しんで身悶えをしてゐた。
「どうした、どうした、」
 その省三の眼に細君の枕元に転がつているコツプと売薬の包みらしい怪しい袋が見えた。
「お前は、何んと云ふことをしてくれた、」
 省三は細君の両脇に手をやつて抱き起さうとしたが考へついたことがあるのでその手を離した。
「お前は子供が
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