ないから、)
細君は三千円ばかりの父親の遺産を持つて来てゐた。……
その日は神田の出版書肆から出版することになつた評論集の原稿を纒めるつもりで、机の傍へ雑誌や新聞の摘み切りを出して朱筆を入れてゐると、男の子がちよこちよこと這入つて来てその原稿を引つ掻きまはすので、
(おい、坊やをどうかしてくれなくちや困るぢやないか、)
と云ふと、
(坊やお出でよ、そのお父様は、もう家のお父様ぢやないから駄目よ、)
と云つて細君が冷たい眼をして這入つて来た。
(馬鹿、)
(どうせ、私は馬鹿ですよ、馬鹿だから、こんな目に逢ふんですよ、坊や、お出で、)
細君はまだ雑誌の摘み切りを手にして弄つてゐる子供の傍へ行つてその摘み切りを引つたくつてをいていきなり抱きかかへた。その荒々しい毒々しい行ひが彼の神経を尖らしてしまつた。彼は朱筆を持つたなりに細君の後から飛びかかつて行つて両手でその首筋を掴んで引き据ゑた。細君は機を喰つて突き坐つた。と、子供がびつくりして大声に泣き出した。
(馬鹿、なんと云ふ云ひ方だ、)
彼は細君の頭の上を睨み詰めるやうにして立つてゐた。
細君の泣き声がやがて聞えて来た。
(何と云ふ馬鹿だ、身分を考へないのか、)……
彼は楼門の下を歩いてゐた。白い浴衣を着た散歩の人がちらちらと眼に映つた。
……この先、こんな日がもう一箇月も続かうものなら頭は滅茶滅茶になつて何も出来なくなる出来なくなればますます生活が苦しくなる。この上生活に追はれては立ちも這ひも出来ないことになる、どうしても別居だ別居して静に筆をとる一方で、自分の哲学を完成しようそしてその間に時間をこしらへて彼の女と逢はう……
彼は弁天堂の横から吐月橋の袂へと行つた。其所は弁天堂の正面と違つて人通りがすくなく世界が違つたやうにしんとしてゐた。彼は暗い中を見た。
「先生ぢやありませんか、」
と、聞き覚えのある女の声がした。省三は足を止めて後の方を振り返つた。白い顔が眼の前に来た。それは水郷の町の女であつた。
「何時いらしつたんです、」
「今の汽車で参りました。ちやうど好かつたんですね、」
「何所へいらしつたんです、」
「銚子の方へ行かうと思つて、家を出たんですが、先生にお眼にかかりたくなりましたから参りました。これからお宅へあがらうと思ひまして、ぶらぶらと歩いて参りましたが、なんだか変ですから、ちよつと
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