へて元の蒲団の上へ戻つて来た。
「そんなことはないでせう、私達もこんな所に一箇月もをると、何か纒まりさうな気がしますよ、」
「一箇月でも二箇月でも、お気に召したら、一箇年もゐらしてくださいまし、こんなお婆さんのお相手ぢやお困りでございませうが、」
 女はかう云ひ云ひ卓の上に乗つてゐる黒い罎を取つてそれを傍のコツプに注いでそれを省三の前に出し、
「お茶の代りに赤酒を差しあげます、お嫌ぢやござんすまいか、」
「すこし戴きませう、あまり飲めませんけれど、」
「女中を呼びますと、何か、もすこしおあいそも出来ませうが、面倒でございますから、どうか召しあがつてくださいまし、私も戴きます、」
 女も別のコツプへその葡萄酒を注いで一口飲んだ。
「では、戴きます、」
 省三は俯向いてコツプを取つた。
「私は先生が雑誌にお書きになるものを何時も拝見してをります。それで一度、どうかしてお眼にかかりたいと思ふてをりましたところ、今日、先生の御講演があると家へ出入りの者から伺ひまして、どんなに今日の講演をお待ちしましたか、そして、その思ひがやつと叶つてみると、人間の欲と云ふものは何所まで深いものでございませう、遠くからお話を伺つたばかしでは、気が済まなくなりまして、こんな御無理をお願ひしました、こんなお婆さんに見込まれて、御迷惑でございませう、」
 女はまた笑つた。省三も笑ふより他に仕方がなかつた。
「私は判りませんけれど、今日先生がなさいました、恋愛に関するお話は、非常に面白うございました、あのお話の中の女歌人のお話は、非常な力を私達に与へてくださいました。もツともこんなお婆さんには、あの方のやうな気の利いた愛人なんかはありませんが、あのお話で、つまらない世間的な道徳などは、何の力もなくなつたやうな気がしますわ、」
「あなたのやうに、心から、私のつまらん講演を聞いてくだされた方があると、私も非常に嬉しいです。しかし、私が本当の講演が出来るのは、まだ十年の先ですよ、まだ、何も頭にありませんから、」
「そんなことがあるものでございますか、今日の聴衆と云ふ聴衆は、先生のお話に感動して、涙ぐましい眼をして聞いてをりましたわ、」
「駄目です、まだこれから本を読まなくては、もつとも、これからと云つても、もう年が行つてますから、」
「失礼ですが、お幾歳でゐらつしやいます、」
「幾歳に見えます、」
「さう
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