るために集つたのでせうが、もう、帰しましたよ、」
省三は水の上を見た。今までゐた鯉はもうゐなくなつて鉛色の水がとろりとなつてゐた。
「もう、ゐなくなつたでしよ、ね、それ、」
省三は呆気に取られて水の上を見てゐた。と一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがつて来てそれが白い腹をかへして死んだやうに水の上に横になつた。
「死んだんでせうか、あの鯉は、」
「あれは、先生に肉を御馳走した鯉でございますわ、」
「えツ、」
「いゝえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがつたでございませう。このあたりは、鯉が多うございますから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ、」
女はかう云つて惚れ惚れする声を出して笑つた。
四
省三は眼が覚めたやうに周囲を見まはした。青みがかつた灯の燭つた室で自分は黒檀の卓を前にして坐つてゐてその左の側に女が匂ひのあるやうな笑顔をしてゐた。
「私は、どうして此所へ来たでせう、」
省三はボートの中で鯉の群と死んだやうな鯉の浮いて来たのを見てゐる記憶があるばかりで、舟からあがつたことも路の上を歩いたこともその家の中へ這入つて来たこともどう云ふものかすこしも判らなかつた。
「私と一緒にずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへ参りますと、狐に撮まれたやうにぼうとなるものでございますわ。本当に失礼致しました。こんな河獺の住居のやうな所へお出でを願ひまして、」
「どう致しまして、静かな、湖に臨んだ理想的なお住居ですね、」
省三はその家の位置が判つたやうな気になつてゐた。
「これから寒くなりますと、締つきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしうございますわ、」
女は起つて行つて省三から正面になつた障子を開けた。障子の外は小さな廊下になつてそれに欄干がついてゐたがその欄干の先には月がぼかされた湖の水が漂渺としてゐた。
「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでせうね、」
省三は延び上るやうに水の上を見ながら云つた。女は障子へ寄つかかるようにして立つてゐた。
「真似事を致しますが、とても駄目でございますわ、」
「そんなことはないでせう。かう云ふ所にゐらつしやるから、」
「いくら好い所にをりましても、頭の中に歌を持つてをりません者は、駄目でございますわ、」
女はかう云つて笑ひ声を立てたがそのまま体の向きをか
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