、さうですね、」女は黒い眼でぢつと正面で省三の顔を見詰めたが「三十二三でゐらつしやいますか、」
「やあ、それはおごらなくちやなりませんね、六ですよ、」
「三十六、そんなには、どうしても見えませんわ、」
「あなたはお幾歳です、」
「私、幾歳に見えますか、」
「さあ、三ですか、四にはまだなりますまいね、」
「なりますよ、四ですよ、矢張り先生のお眼は違つてをりますわ、」
「お子さんはおありですか、」
「子供はありません。一度結婚したこともありますが、子供は出来ませんでした、」
 省三はその女が事情があるにせよ、独身であると云ふことを聞いて、心にゆとりが出来た。彼は女が二度目に注いでくれたコツプを持つた。
「それでは、目下はお一人ですか、」
「さうでございますわ、こんなお婆さんになつては、何人もかまつてくださる方がありませんから一人で気儘に暮してをりますわ、」
「却つて、係累がなくつて気楽ですね、」
「気楽は気楽ですけれど、淋しうございますわ、だから今日のやうな我儘を申すやうなことになりますわ、」
「こんな仙境のやうな所なら、これから度度お邪魔にあがりますよ、」
 省三はもう酔つてゐた。
「今晩もこの仙境でお泊りくださいましよ、」
 牡丹の花の咲いた様な濃艶な女の姿が省三の眼前にあつた。
「さうですね、」
「私の我儘を通さしてくださいましよ、」
 女の声は蝋燭の灯の滅入つて行くやうにとろとろした柔かな気持になつて聞えて来た。省三は卓に両肱を凭せて寄りかかりながら何か云つたが聞えなかつた。
 女は起つて自分の着てゐる羽織を脱いで裏を前にして両手に持つて省三の傍へ一足寄つた。と、廊下の方でぐうぐうと蛙とも魚ともつかない声が沢山の口から出るやうに一めんに聞え出した。女は厭やな顔をして開けてある障子の外を見た。今まで月と水とが見えて明るかつた戸外は真暗な入道雲の[#「入道雲の」は底本では「人道雲の」]やうなものがもくもくと重なり重なりしてゐた。
「馬鹿だね、なにしに来るんだね、馬鹿な真似をしてると承知しないよ、」
 女は叱るやうに云つた。それでもぐうぐうの声は止まなかつた。黒い雲の一片はふはふはと室の中へ這入つて来た。
「お巫山戯でないよ、」
 女の右の手は頭にかかつて黒いピンが抜かれた。女はそのピンを室の中へ入つて来た雲の一片眼かけて突き刺した。と、怪しい鳴き声はばつたり止んで雲
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