くなつた。もう運河が湖水へ這入つた土手が来たなと思つた。其所には木材を積んだり[#「積んだり」は底本では「積んだリ」]セメントの樽のやうな大樽を置いたりしてあるのが見える。彼は二三年前の事業熱の盛んであつた名残りであらうと思つた。
月に雲が懸つたのかあたりが灰色にぼかされて見えた。省三は東になつた左手の湖の中に出つ張つた丘の上を見た薄黄いろな雲が月の面を通つてゐた。
「先生、山根先生ではございますまいか、」
女が眼の前に立つてゐた。面長な白い顔の背の高い女であつた。
「さうです、私が山根ですが、」
「どうも相済みません、私は先つき手紙を差しあげて、御無理を願つた者でございます、」
「あなたですか、」
「はい、どうも御迷惑をかけて相済みません、ですが、今日、先生の御講演を伺ひまして、どうしても先生にぢき/\お眼にかゝりたくてかゝりたくて、仕方がないもんですから、先生のお宿を聞き合して、お手紙を差しあげました。まことに済みませんが、ちよつとの間でよろしうございます、私の宅へまでお出でを願ひたうございます、」
「何方ですか、」
女はちよつと後をふり返つて丘の端へ指をさした。
「あの丘の端を廻つた所でございますが、舟で行けば十分ぐらゐもかゝりません、」
「舟がありますか、」
「えゝ、ボートを持つて来てをります、」
「あなたがお一人ですか、」
「えゝ、さうですよ、お転婆でせう、」
女は艶やかに笑つた。
「さうですね、」
省三はちよつと考へた。
「女中と爺やより他に、何も遠慮する者はをりませんから、」
「さうですね、すぐ帰れるなら参りませう、」
「すぐお送りします、」
「では、参りませう、」
「それでは、どうか此方へ、」
女が先になつてアンペラの俵を積んである傍を通つて土手へ出た。其所には古い船板のやうなものを斜に水の上に垂らしかけた桟橋があつてそれが水と一緒になつたところに小さな鼠色に見えるボートが浮いてゐた。
「あれでございますよ、滑稽でせう、」
「面白いですな、」
省三は桟を打つて滑らないやうにしたその船板の上を駒下駄で踏んでボートの方へおりて行つた。船板はゆら/\と水にしなつて動いた。ボートは赤いしごきのやうなもので繋いであつた。
「そのまゝずつとお乗りになつて、艫へ腰をお懸けくださいまし、」
省三はボートに深い経験はないがそれでも女に漕がして見てゐられ
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