、先生、」
 黙然と考へ込んでゐた省三はふと顔をあげた。薄暗くなつた室の中に色の白い女が坐つてゐてそれが左の足をにじらして這ふやうに動いた。と、青い光がきらりと光つて電燈がぱつと点いた。
 室には何人もゐなかつた。省三はほつとしたやうに電燈を見なほした。
 廊下に足音がしてはじめの女中が入つて来た。女中は手に桃色の小さな封筒を持つてゐた。
「お手紙が参りました、」
 省三は桃色の封筒を見て好奇心を動かした。
「何所から来たんだらう、持つて来たのかね、」
「俥屋が持つて参りました、」
 省三は手紙を受け取りながら、
「俥屋は待つてゐるかね、」
 と云つて裏を返して差出人の名を見たが名はなかつた。
「お渡しゝたら好いと云つて、帰つてしまひました、」
「さうかね、誰だらう、今日の委員か有志かだらうか、」
 それにしては桃色の封筒が不思議であると思ひながら静に開封した。罫のあるレターペーパーに万年筆で書いた女文字の手紙であつた。省三はちらと見たばかりで女中の顔を見て、
「よし、有難う、」
「お判かりになりましたか、」
「あゝ、」
「では、また御用がありましたら、お呼びくださいまし、」
「有難う、」
 女中が出て行くと省三は手紙の文字に眼をやつた。それはその日公会堂に来て彼の講演を聞いた身分のあるらしい女からであつた。彼はその手紙を持つたなりに女の身分を想像しはじめた。彼の心はすつかり明くなつてゐた。

          三

 省三は好奇心から八時十分前になると宿を出て運河が湖水に入つてゐる土手の上へと出かけて行つた。其所には桃色の封筒の手紙をよこした女がゐることになつてゐた。
 宵に一時間ばかり闇をこしらへて出た赤い月があつた。それは風のない春のやうな夜であつた。二人連の労働者のやうな酔つぱらひをやり過して、歩かうとして右側を見ると赤いにじんだやうな行燈が眼についた。それは昔泊つたことのある旅館の行燈であつた。しかし彼はその行燈に対して何の感情も持たなかつた。
 彼は甘い霞に包まれてゐるやうな気持になつてゐた。路の右側にある小料理屋から三味線が鳴つてその音と[#「その音と」は底本では「その昔と」]一緒に女の声も交つて二三人の怒鳴るやうな歌が聞えてゐたが彼の耳には余程遠くの方で唄つてゐる歌のやうにしか思へなかつた。
 微白いぼうとした湖の水が見えて右側に並んでゐた人家がな
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