申陽洞記
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)隴西《ろうせい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日|平生《いつも》のように
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ほっ」に傍点]
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元の天暦年間のことであった。隴西《ろうせい》に李生《りせい》という若い男があった。名は徳逢《とくほう》、年は二十五、剛胆な生れで、馬に騎《の》り、弓を射るのが得意であったが生産を事としないので、郷党の排斥を受けて、何人《たれ》も相手になってくれる者がない。しかたなしに父の友達で桂州の監郡をしている者があるので、その人に依って身を立てようと思って、はるばると桂州へ往ってみると、折角頼みにしていた人が歿《な》くなっていて、世話になることができない。故郷へ帰ろうにも旅費がないので困ったが、その辺は山国で有名な山が多いので、李生はその山へ眼を著《つ》けて、猟をして自活をすることに定め、毎日弓を持って山の中へ出かけて往った。
ある日|平生《いつも》のように弓を持って山へ往ったところで、一匹の鹿が林の中から出てきた。李生は好い獲物と思ったので、急いで矢をつがえて射ようとした。獣は驚いて山の方へ逃げだしたが、その逃げ方が非常に早いので、矢を放すことができない。それでも李生は逃がしてたまるものかという気で、どんどん追っ駈けて往った。獣の姿は木の陰になったり草の中になったりして、李生に矢を放す機会を与えなかった。
山のうねりがあり、岩の並んでいる谷底があり、雑木の林があった。李生はどこまでもとその獲物を追っ駈けた。落ちかけた夕陽がひょろ長い赤松の幹に射しているのが見えた。獣は見えなくなってしまった。李生はその獲物の姿の隠れて往った谷の下の林の方を見て立った。
いつの間にか陽が入っていた。紫色に煙って見える遠山の空に一抹の夕映の色が残っていた。李生は驚いて急いで山をおりようとした。方角は判らないが、夕映から見当をつけて、南と思われる方へおりて往った。林の下はうっすらと暮れていた。鳥や獣の啼く物凄い声が谷々に木魂をかえした。山のうねりが来た。李生はそのうねりを登って往った。古廟の屋根が見えた。李生はそれを見ると、そこで夜を明かして朝になって家へ帰ろうと思いだした。彼はその廟を目がけて登って往った。
古廟は柱が傾き、簷《のき》が破れ、落葉の積んだ廻廊には、獣の足跡らしい物が乱雑に著《つ》いていた。李生は気味が悪いが他にどうすることもできないので、廡下《のきした》へ腰をおろし、手にしていた弓を傍へ置いて、四辺《あたり》に注意しながら休んでいた。廟の前の黒い大木の梢には、二つ三つの星の光があった。
人の声とも獣の声とも判らない声が聞えてきた。李生は耳を傾けた。それは国王や大官の路を往く時に警蹕《けいひつ》するような声であった。その声はしだいに近くなってきた。
どうも不思議な事だと李生は思った。こうした深山の中で、しかも夜になって警蹕する者は何者であろう。大胆不敵な強盗か、それとも妖怪の類か、とても普通の貴族大官ではあるまい。もしそうだとすると、こうしておることは危険である。これはどこかへ身を隠して、それを見届けたうえで、それに対する手段を考えなければならないと思った。彼はちょっと考えた後で、弓を持ってそこの柱へすらすらと登って、欄間から梁の上へ往った。
警蹕の声がすぐ入口に聞えて、紅い二つの燈が見えてきた。その燈に続いて数人の怪しい人影が見えたが、やがてそれが脚下《あしもと》の方で渦を捲いて静まった。李生は呼吸《いき》をころしてのぞいた。紅燈の燈はとろとろと燃えていた。三山の冠を被り、淡黄袍《たんこうほう》を著けて、玉帯をした者が神座へ坐って、神案《しんあん》に拠りかかり、その従者であろう十人あまりの者が、手に手に戟《ほこ》を持って階下の左右に別れて立っていた。冠を著た者の顔は蒼黒い大きな猿の顔であった。李生は階下の者の顔にも眼をやった。それも皆猿の顔であった。
果して妖怪の類であった。李生は矢を抜いて弓に添え、冠を著た妖怪を覘《ねら》って放した。矢は妖怪の一方の臂《ひじ》に当った。と、おそろしい混乱がそこに起って、紅燈が消えてしまった。李生は二本目の矢をつがえて下の方へ注意していたが、真暗で何も見えないけれども、もう四辺がひっそりして妖怪もいそうにないので、矢を著けた妖怪は朝になって探すことにして、下へおりて仮睡に就いた。
朝になった。冷たい霧が朝風に吹かれて切れ切れになって飛んで往った。李生は起きて神座の辺《ほとり》に注意した。たまっている朽葉の上に赤黒い血の滴点《したたり》があった。李生はその血の滴点をつけて廟を出た。血の滴点は山の南の畝《うね》りに沿
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