うて著いていた。
五里ぐらいも往ったところで、大きな穴があった。深い深い底の見えない穴の口に、出たばかりの朝陽があたっていた。血の滴点はその穴まで往って消えていた。李生はその穴を覗き込んだ。そして、その後で後ろの方を見返った。足をやっていた土が崩れて、彼は穴の中へ陥ちてしまった。
李生は意識がめぐってきた。彼はまず自分の体がどこにあるかということを考えてみた。自分は仰向けになって、固いごつごつした石の上に横たわっている。それでは自分はべつにたいして体も痛めずに、あの穴の底へ陥ち込んだものだと思った。彼は眼を開けた。黄昏《たそがれ》のような暗さがあった。彼は起きあがって体のまわりに手をやってみた。体には別に異常もなかったが、持っていた弓も、背負っていた矢も矢筒ぐるみなくなって、僅に矢尻に浸める毒を盛った小さな皮袋が残っているばかりであった。矢と弓はとても手に返らないと思ったが、それでも惜しいので俯向いて四辺を見廻した。やはり弓と矢は見えなかった。
恐ろしい不安がその後からきた。李生はどうしてこの穴から出て往ったものだろうと思いだした。彼は足の向いている方へと微闇《うすやみ》の中を歩いて往った。百歩ばかり往ったところで微白《ほのじろ》い光が見えた。そこには大きな岩がでっぱっていた。岩に随《つ》いて廻ると明るい昼の世界があった。一筋の路が苔の中に見えていた。李生はその路を歩いて往った。
大きな石室《いしむろ》があって、その入口に番兵らしい二三の者が戟を持って立っていた。李生はその前へ往った。戟を持った者は猿の顔をしていた。それは昨夜古廟の中で見た姿であった。石室の入口には「申陽之洞《しんようのどう》」という扁額が懸《かか》っていた。李生は昨夜自分が矢を著けた三山の冠を着た妖怪は、この内にいるのだなと思った。
「その方は何者だ、どうしてここへやってきた」
番兵の一人が驚いたように眼をきょろきょろとさした。
「私は、府城の中に住む医者でございますが、薬を取りにきて、あっちこっちと歩いているうちに、足を滑らして、陥ちて困っておるところでございます」
李生は恭《うやうや》しく礼をしながらでまかせを言った。
「では、お前は医者か、医者なら手創の療治ができるか」
李生はうっかりすると甚《ひど》い目に逢うから、ここが大切だと思った。そう思う心の下から、ある皮肉な考えがちらと浮んできた。
「私は好い薬をもっております、手創が治るばかしでなしに、それを飲むと、不老不死が得られます」
「そうか、それは天が神医を与えてくだされたのじゃ、大王申陽侯が昨日遊びに往かれて、流矢に当って苦しんでおられる、お前の薬を頼みたい、こっちへきてくれ」
その番兵は李生を連れて石室の中へ入って往った。石室の中にも昨夜古廟で見た姿の者が、そこにもここにも眼を光らして腰を掛けていた。
「ここで、控えておってくれ、大王に伺うてくる」
番兵は奥の方へ入って往った。李生はそこにあった牀《こしかけ》に腰をかけて待っていた。
間もなく番兵が引返してきた。
「大王が非常に悦《よろこ》んでおられる、早く往って療治をしてあげてくれ」
李生は番兵に随いて往った。そこに二重門があって、それを入ると錦繍の帷《とばり》をした室《へや》があって、その真中に石の榻《ねだい》を据え、その上に大きな老猿が仰向けに寝てうんうんと唸っていた。榻の傍には三人の綺麗な女が腰をかけていた。
「あれにいらるるが大王であらせられる、早くお前の持っておる霊薬を差しあげてくれ、お前のことをお聞きになって、大王も非常にお喜びになっておられる」
番兵はこう言って李生の顔を見た。そこで李生は大王の方へ向って拝《おじぎ》をしてから進んで往った。
「お創を拝見いたします」
大王は返事の代りに唸り声をたてた。傍にいた女の一人が傍へ寄って創を捲いている布をそろそろと解いた。毛もくじゃらの臂に血の生々した創があった。李生は近々と寄って往ってその創のまわりに指を触れた。
「私の持っておる薬は、仙薬でございますから、病をなおすばかりでなく、年も取らなければ死にもいたしません、こんな創ぐらいは、一度に癒ってしまいます」
大王はまた唸り声を立てた。李生は腰の皮袋をはずしてその中から石綿に浸した薬液を取りだし、その小部分を撮《つま》みとって大王の一方の手へ乗せた。
「これをさしあげます」
大王はいきなりそれを口へ持って往った。李生はほっ[#「ほっ」に傍点]としたが、それでも部下の者がどんなことをするかも判らないので気を許さなかった。
いつの間に集まってきたのか、三十個ばかりの部下の者が、目白押しに入口の処へ集まって、李生のくるのを待ち兼ねているようにしていた。李生は気味悪く思いながら寄って往った。
「私にも霊薬をいただか
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