すよ」
その声はたしかに女房の声であった。甚九郎は蒲団を頭から冠って顫えた。
「開けてくださいよ、開けてくださいよ」
甚九郎の耳はがんがんと鳴った。と、雨戸ががらがらと開いて女房が枕頭に来た。
「何故私をそんなに嫌います、いくら嫌われても、私は貴郎《あなた》を離れませんよ」
甚九郎は死んだつもりで顔をあげた。何時の間にか行灯が点いて女房が艶かしい姿で坐っていた。
甚九郎はもう怪しい女を刺し殺すより他に手段がないと思った。彼は此処では好い商《あきない》がないから会津の方へ往こうと云って、旅装束をして二人で家を出た。
そして、山路を往ってその日の午比、小さな辻堂のある処へ往った。甚九郎は女とその辻堂の縁に腰をかけて、腰にしていた弁当を開いた。
女の体に油断が見えた。甚九郎は腰の脇差を抜いて女の胸元を突いた。女は突かれながら甚九郎に掴みかかろうとした。甚九郎は身をかわした。女は仰向きになって倒れた。
それを見ると甚九郎は刀を投げ捨てて逃げ走った。そして、気が注《つ》いてみると己《じぶん》は某《ある》寺の門前に立っていた。彼は其処へ駈け込んだ。
六十前後の住持の僧が室《へや》
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