来た。
眼の前に若い子供子供した女の顔が浮かんで来た。彼の心はその方にと引かれて行つた。
(小桜、)
あれは確に小桜と云つたなと思つた。それはその前夜吉原の小格子で知つた女の名であつた。
(今晩もずつと出かけて行かう、)
登はふと足のくたびれを感じた。彼は愛宕下から休まずにてく/\歩いて来たことを考へだした。額には湯のやうな汗があつた。彼は右の手を腰にやつた。白い浴衣の兵児帯には手拭を挟んであつた。彼は手さぐりにその手拭を取り、左の手で帽子を脱いで、汗を拭ひだした。
一軒の茶店のやうな家が眼の前にあつた。其所は路の幅も広くなつてゐた。一間くらゐの入口には、納涼台でも置いたやうな黒い汚い縁側があつて、十七八の小柄な女が裁縫をしてゐた。それは子供子供した一度も二度も見たやうな何所かに見覚のある綺麗な顔であつた。視線が合ふと女の口許に微笑が浮んだ。
登の足は自然と止まつてしまつた。彼はこの女は何所かで見たことがある、何所で見た女だらうと考へてみたが思ひだせなかつた。彼はまた女に眼をやつた。と、女と視線がまた合つた。女の口許には初めのやうな微笑が浮かんだ。彼はそのまゝ入口の方へと行つ
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