殺神記
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)郭元振《かくげんしん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一条|微赤《うすあか》い
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唐の開元年中、郭元振《かくげんしん》は晋《しん》の国を出て汾《ふん》の方へ往った。彼は書剣を負うて遊学する曠達《こうたつ》な少年であった。
某《ある》日《ひ》、宿を取り損ねて日が暮れてしまった。星が斑《まばら》に光っていた。路のむこうには真黒な峰が重なり重なりしていた。路は渓川《たにがわ》に沿うていた。遥か下の地の底のような処で水の音が聞えていた。鳥とも蝙蝠《こうもり》とも判らないようなものが、きい、きい、と鋭い鳴声をしながら、時おり鼻の前《さき》を掠《かす》めて通った。
夜霧がひきちぎって投げられたように、ほの白くそこここに流れていた。車の轍《わだち》に傷めつけられた路は一条|微赤《うすあか》い線をつけていた。その路は爪さきあがりになっていた。高い林の梢の上に微《かすか》な風の音がしていた。
路は小さな峰の上へ往った。路の上へ出ると元振はちょっと馬を控えた。黒い山の背がやはり前方《むこう》の空を支えていた。暗い谷間《たにあい》の方へ眼をやった時、蛍火のような一個《ひとつ》の微な微な光を見つけた。
「人家だ」
元振は眼を輝かした。人家ならどうにでも頼んで、一晩泊めて貰おうと思った。
馬は勾配の緩い路を静かにおりはじめた。今のさきまで人家のある処まで往こうと思って、それがために気を張っていた少年は、人家を見つけると共に疲労を覚えてきた。彼は早くその家に往き着こうと思って馬を急がした。
支那の里程で三里ばかり往ったところで、目的《めあて》にして往った明りがすぐ眼の前にきた。そして、人声は聞えないが何か酒宴《さかもり》でもしているように、室《へや》の中から華やかな燈火の光が漏れていた。
元振は馬からおりて、それを門口の立木に繋いで門を入った。家の中はしんとして何の音も聞えなかった。元振は入口の戸を静に叩いた。応《へんじ》もなければ人の出てくる跫音《あしおと》も聞えない。で、今度は初めよりも強く力を入れて叩いた。それでも中へ聞えないのか応がなかった。
「もし、もし、お願いいたします」
元振は声をかけてまた戸を叩いたが、依然として応がないので、彼は中へ入って
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