声をかけるつもりで戸に手をかけてみた。戸はがたがたと軋《きし》りながら開いた。元振は中へ入った。明るい燈火がその室にも点《つ》いていたがやはり人はいなかった。
「もし、もし、すこしお願いいたしたいのですが」
 元振は大声をした。それでも応もなければ人の出てきそうな気配もない。元振は首を傾《かし》げて考えたが意味が判らなかった。
「何人《どなた》もいらっしゃらないのですか」
 元振はまた言って暫く立っていたが、依然として応がなかった。元振はいつまでも立っている訳にゆかないので、思いきって上へあがった。
 酒宴《さかもり》の準備《したく》をして数多《たくさん》の料理を卓の上へ並べた室が見えた。元振はその室の入口へ立って中を窺いた。そこにも人影がなかった。全体こうして酒宴の準備をしておいて、家内の者はどこへ往ったのだろう、ついすると次の室へ集まって、酒宴の前に何か話でもしているかも判らないと思った。彼はその室へ入らずに廊下のような処を通って次の室へ往った。
 力のない声で泣いている泣声が聞えた。元振はちょっと立ちどまって耳を傾げたが、中へ入って容子《ようす》を訊いてみようと思ったので、入口へ往って戸の隙から窺いた。十五六になる若い女が俯伏しになって泣いていた。
「もし、もし、すこしお願いいたします、私は旅の者ですが」
 元振がこう言ったが、聞えないのか女は顔をあげなかった。元振は女を驚かしては気の毒だと思ったが、思い切って中へ入った。
 女は顔をあげた。顔をあげて元振の方を一目見ると、さも怖ろしそうに顔に袖をあてて体を震わした。
「私は郭元振という者です、宿をとり損ねて日が暮れましたから、是非お宿を拝借しようと思って、門口から声をかけましたけれども、何人《だれ》もいらっしゃらないから、失礼ですがあがってきました」
 女は顔の袖を除《の》けて元振の顔を見た。
「お見かけすると、隣の室に酒宴の準備をしてあるようですが、全体どういう事情で、貴女は泣いていらっしゃるのです」
「私は今晩、神様の人身御供《ひとみごくう》になりますから、それが悲しゅうございます」
 元振は驚いた。
「人身御供、何という神の人身御供になります」
「この村に、烏将軍《うしょうぐん》という神様がございまして、毎年毎年、女を一人、人身御供にあげております、もし、それをあげないと、村に災難が起ります、私のお父さ
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