きた。心がおちついて来ると共に彼は恐ろしい妖婦に纏《まつ》わられている己《じぶん》の不幸をつくづく悲しんだ。そして口惜《くや》しくもなった。李克用は許宣が杭州で薬舗《やくほ》の主管《ばんとう》をしていたことを知ったので、仕事をさしてみると、することがしっかりしていてあぶなかしいと思うことがなかった。そこで主管にして使うことにしたが、他の店員に妬《ねた》まれてもいけないと思ったので、許宣に金をやって店の者を河の流れに臨んだ酒髟《しゅし》へ呼ばした。
 やがて酒を飲み飯を喫って、皆が帰って往ったので、許宣は後で勘定をすまして一人になって酒髟を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は黄昏《ゆうぐれ》の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷《のき》の下を歩いていた。
 一軒の楼屋《にかいや》があってその時窓を開けたが、その拍子に何か物が落ちて来て、それが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この痴者《ばかもの》、気を注《つ》けろ」
 楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か云って引込んだ。許宣は不思議に思ってその窓の方を
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