服の類が庫の空箱の中から出て来たと云う知らせであった。周将仕はあわただしく家へ帰って往ったが、家の者が云ったように盗まれたと思っていた物は皆あった。ただ扇子と墜児《たま》がなかったが、そんな品物は同じ品物が多いので、そればかりでは許宣を盗賊とすることができなかった。周将仕は再び府庁に往ってそのことを云ったので、許宣は許されることになったが、許宣を置く地方が悪いということになって、鎮江《ちんこう》の方へ配《はい》を改められた。
 そこで許宣は鎮江へ送られることになったところへ、折好く杭州から邵大尉の命で李幕事が蘇州へやって来た。李幕事は王主人の家へ往って許宣が配を改められたことを聞くと、鎮江の親類へ手簡を書いてそれを許宣に渡した。鎮江の親類とは針子橋《しんしきょう》の下《もと》に薬舗《くすりや》を開いている李克用《りこくよう》と云う人の許《もと》であった。
 許宣は護送人といっしょに鎮江へ往って、李克用の家へ寄った。李克用は親類の手簡を見て護送人に飯を喫《く》わし、それからいっしょに府庁へ往って、それぞれ金を使って手続をすまし、許宣を家へ伴れて来た。
 許宣は李克用の家へおちつくことができた。心がおちついて来ると共に彼は恐ろしい妖婦に纏《まつ》わられている己《じぶん》の不幸をつくづく悲しんだ。そして口惜《くや》しくもなった。李克用は許宣が杭州で薬舗《やくほ》の主管《ばんとう》をしていたことを知ったので、仕事をさしてみると、することがしっかりしていてあぶなかしいと思うことがなかった。そこで主管にして使うことにしたが、他の店員に妬《ねた》まれてもいけないと思ったので、許宣に金をやって店の者を河の流れに臨んだ酒髟《しゅし》へ呼ばした。
 やがて酒を飲み飯を喫って、皆が帰って往ったので、許宣は後で勘定をすまして一人になって酒髟を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は黄昏《ゆうぐれ》の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷《のき》の下を歩いていた。
 一軒の楼屋《にかいや》があってその時窓を開けたが、その拍子に何か物が落ちて来て、それが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この痴者《ばかもの》、気を注《つ》けろ」
 楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か云って引込んだ。許宣は不思議に思ってその窓の方を
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