腰をかけたところで、小婢が茶を持って来た。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにはゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品《さかな》を持って来た。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、ま、お一つ、そうおっしゃらずに」
許宣は気の毒だと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「それでは失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょとお待ちを願います、昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転借《またがし》をいたしましたから、すぐ執ってまいります、お手間は執らせませんから」
許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いてく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも執りにあがりますから、今日わざわざでなくっても宜いのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙《ひま》ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日対手《あいて》がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
許宣は白娘子に別れ、小婢に門口《もんぐち》まで見送られて帰って来たが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、己《じぶん》で己を意識することができなかった。そして、翌日舗《みせ》に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へと往った。
許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出て来た。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂《うわさ》いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります、傘をください、ここで失礼します」
許宣はそう云ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出て来てくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょとお入りくださいまし」
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