場所を書いた札が建ててあった。今度は右側になった馬喰町三丁目の書肆の跡を見出そうと思い思い歩いた。焼け跡で鍬を持って掘っていたり、トタンの半焼けになったのを持って来て、仮小屋をこしらえていたりする者が多くなった。
 小さな川があって橋がかかり、剣銃の兵士が数人立っていた。私は見るともなしに橋の左側から水の上を見た。蒲団や藁莚などの一めんに浮んだ中に人の死体が見えた。それはシャツ一枚の俯向きになった男で、両肱を左右に張って拳をこしらえ、それで両足の膝のあたりに力を入れているように足先をあげていたが、獺か猫かの死んでいるようであった。死体は五六間下手の方にもまだ一つ見えた。それは土人形のような感じのする死体で仰向けになって浮いていた。私は二人とも人間のような気がしなかった。
 橋の左右の欄干に添うてたくさんの鉄棒や、一方を鎗のように削った竹などが置いてあった。一人の若い男が何か言ってその中から竹杖を拾って手にした。取ってかまわなければ自分も一本もらおうと思って、鉄棒を取りあげたところで、剣銃の兵士が来て、鉄棒を取ってはいけないと言って叱った。私はすぐその鉄棒が通行人の手から没収せられたものだということを知った。私は独りで苦笑しながら黒竹の切れっぱしに換えて橋を越した。
 それは浅草橋であったが、周囲の目標がなくなっているので判らなかった。私はまだ馬喰町三丁目は来ないか来ないかと思って往っていた。大きな真黒い煙突のある建物が眼についた。私ははじめてそれが蔵前の専売局だということを知った。そこで私は馬喰町の方は日を変えることに定めたが、それでも厩橋《うまやばし》が渡れないことを聞いているので、仕方なしにまた浅草橋の方へ帰って往って、そこから両国橋へと往った。
 二三人の兵士がそこにもいて通行人を監視していた。私は中央の車道を通りながら、神田川の口の手前になった岸の方に眼をやった。退潮の赤濁のやや減った水際に二三の死体らしい物が漂うていた。私は足を止めて注意した。そのあたりの頭を出した捨石のごろごろした所には、戸板や衣類のようなものがごたごたとかかってそれが干あがっていた。その流れ物の中にも仰向きになって両足を水の中にした死骸があって、それは力士のようにぶくぶくと膨れあがっていた。二日三日のころにはその両国橋をはじめ、厩橋、吾妻橋の橋杙《はしぐい》に、死体が一ぱいになっていたということを聞いていたので、私はさほどに驚かなかった。
 国技館の外形は整然として両国の空を圧して、火災に逢ったとは思われないほどであった。私は橋を渡って電車の線路を往こうとしたが、橋の袂から河岸の方へ往く人もあるので、その方から自転車を押して来た店員のような若い男に、被服廠跡への路を聞いてみた。若い男はどっちから往っても好いと言った。私は河岸の方へ曲って往った。河岸には仮小屋を並べてたくさんの者が避難していた。
 右の方には両国の汽車の線路が、焼け跡の灰の中に浮いて連なっていた。それは鉄骨かなんぞのように焦げて黒くなっていた。河縁に電気の機具でも製造していると思われるような一廓をつくった建物が、不思議に焼け残っていた。それと向きあって路の右側に石の門と土塀の一部が残り、街路に面して二三本の半焼けになった鈴懸の樹のある所があって、その門の敷石の上に、右の手と頭に繃帯をしたシャツに腹掛けの運漕屋の親方らしい男が腰をおろしていた。私も暑くて苦しいので、そこですこし休むつもりで、その門口の石橋の縁《へり》になった石の上に腰をおろした。私はビンの水を飲んだ後で、煙草を点《つ》けて喫《の》みながら被服廠のことを聞いた。親方らしい男は、そこからすぐですが、見ないが好いのですよと言った。
 もう十二時に近かった。私は親方に別れて歩いた。焼け残りの建物の端になった所に小さな掘割の水があって、橋がかかり、その袂に交番があった。見るとその交番の手前になった建物の前に人がたくさん立っていた。そこには火事の怪我人であろう、破れた衣類を着た子供や女が手と言わず足と言わず体中を繃帯して筵の上にごろごろしていた。後で気がついたが、それは被服廠跡から救いだした人人であった。両足と頭に繃帯した五つぐらいの女の児が足を投げだして坐り、片手に小さな茶碗を差し出しているのに、半纏を着た男が水筒の水を注いでやっていた。私は呼吸《いき》づまるような感じがした。
 路の右側には天幕を張って警官が出入りしていた。私は橋を渡って往った。蔵前の専売局の煙突がすぐ前岸に見えた。右側には大きな邸宅跡の石垣の崩れがあった。石垣の内は大きな泉水になって、まわりの樹木は焼けたり折れたりしていた。その邸宅跡をすぎると兵士の一人が路ぶちに立っていた。私は被服廠はその奥らしいと思ったので、兵士の方へは往かずに手前から焼け跡を切れて往
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