、奥行二間半、表の室の三畳敷は畳があったけれども、裏の方は根太板のままでそれに薄縁《うすべり》が処まばらに敷いてあった。ただその陋屋《ろうおく》に立派な物は、表の格子戸と二階の物置へあがる大|階子《はしご》とであった。その格子戸は葭町《よしちょう》の芸妓屋の払うたものを二|分《ぶ》で買ったもので、階子はある料理屋の古であった。その魯文は、前年旗下の酒井某という者の妾の妹を妻にしていた。魯文のその時分の収入は、引札が作料一枚一朱、切付本五十丁の潤筆料が二分ということになっていた。そして、切付本の作者は魯文ということになっていて収入もかなりあったが、あればあるに従って、散じていたので、家はいつも苦しかった。
安政二年十月二日の夜は、通り二丁目の糸屋という書肆に頼まれた切付本の草稿がやっとできあがったので、妻はそれを持って往って、例によって二分の潤筆料をもらって来て、一分を地代の滞りに払い、一分で米を買って来て井戸端で磨《と》いでいた。魯文は汚れ蒲団にくるまって本を読んでいたが、突然大地震が起って、彼の家不相応な大階子が壁土と共にその上に落ちて来た。妻はよたよたと走って来て階子を取り除けたが、蒲団と壁土のために体にすこしも怪我をしていなかった。ここで夫婦は戸外へ出て一夜を明かしたところで、際物師の書肆が来て、地震の趣向で何か一枚|摺《ずり》をこしらえてくれと言った。魯文は露店へ立ったままで筆を執って「鯰の老松」という戯文と下画を書き、ちょうど来合わした狂斎という画工に下画のままの画を描かして渡したところが、これが非常に売れて、他の書肆からも続続注文が来たので、五六日の間に四五十枚の草稿を書いたのであった。
私はその日から街路の警備に立たされた。地震に乗じて朝鮮人が陰謀を企て、今晩は竹早町の小学校を中心にして放火を企てているから警戒せよというような貼紙をする者があったので、各戸から一人ずつ、小銃、刀、手鎗《てやり》など思い思いの得物を持ちだして付近を警戒することになった。三日には戒厳令。
私は手鎗の柄を切って短くしたのを持っていた。それは鞘《さや》のところへ新聞を巻いてあった。私はその手鎗を持って藤坂の口に立ったり、切支丹坂の下に立ったりした。そうして夜も昼も警備に立って、六日の朝になったところで、東海道の汽車が海中に墜落して三百の死傷者があったということがその朝の新聞に出ていた。場所を見ると根府川としてあった。私はすこし気になることがあるので、東京駅へ往ってそれを確かめ、心配していることが杞憂に終るようなら、本所の方へ往って被服廠跡を見ようと思って、深川から避難して来ている友人に警備の代理を頼んでおいて出かけた。
本郷の方にちょっと用事があったので、それへ廻り道をして大学の正門前へ出、それから電車通りを往って、二日の日に一度見ている本郷の焼け跡の灰を見ながら、若竹の前を通って順天堂の手前へ出た。かつては皇城を下瞰するというので一部の愛国者を憤激さしたニコライの高い塔も焼けて、頂上がなくなっていた。それからお茶の水橋を渡ろうとしたが、橋桁《はしげた》からまだ煙が出ていて危険なうえに、兵士が橋の袂《たもと》に針金を張って通行を遮断しているので昌平橋の方へと往った。
路の左側の女子高等師範の建物も、聖堂も、教育博物館の建物も焼けていた。教育博物館の前になった河縁の鳥屋の焼け跡には、まだ石油のカンらしい物が燃えていた。
昌平橋を渡って須田町へと往った。そこには万世橋駅と高架線の線路と、街頭に建った銅像とが残っているのみであった。他は焼け残りの土蔵、四壁ばかり残った石造の建物、火の入った金庫、鉄骨、流れ藻のように手足に絡まる電線、石、瓦、煉瓦、灰、消え残りの火、煙。私は荒漠たる焼け跡を通って本石町の方へ往き、そこから新常盤橋を渡って東京駅へと往った。火災を免がれた東京駅付近の大建築物が、地震の損害を受けていても魏然《ぎぜん》として立っているのが非常に頼もしそうに思われた。
東京駅の構内にも避難者が入っていた。私は駅長室へ往って汽車のことをしらべた。汽車の墜落は事実であったが、私の心配は杞憂に終った。私ははじめの予定通り本所に往くことにして、呉服橋を渡り、それから日本橋の街路を横切って、白木屋の焼け跡に沿うて往きかけたが、本石町と馬喰町とに焼け跡を弔うてやりたい書肆のあることを思いだしたので、引き返し、欄干の粧飾の焼けて鎔けかけた日本橋を渡って、外形ばかり残った三越の建物を見ながら、また本石町の四辻へと往って、そこから右に折れた。
風が火のほとぼりと灰とを吹いた。それに空には暑い陽が燃えていた。私は東京駅前で詰めかえて来たサイダーのビンの水を飲みながら歩いた。
左側の本石町の書肆の焼け跡はすぐ見つかった。そこにも避難している
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