って、兵士のいる方から来ている小路へ出た。五六人の男が奥の方から出て来た。もう脂肪臭いいやな匂いがしてきた。左側の柱の燃え残りの傍に黒く焦げた一つの死体があった。それは肱から先と膝から先のない猿とも人とも判らなくなったものであった。黒焦げ死体はその二三間先にもあった。私は気味は悪かったが、それに対して別にいたましいというような感情は起らなかった。
 焼け残りの建物がその先にあって、三人ばかり詰襟の服を着た者がいた。その傍にひとところ畳一枚敷ぐらいの所に火を燃やしていた。それは上にトタンを着せ、下に薪木になる柱の折れのような物を置いて何か焼いているらしかった。建物は路の角に入口を向けていた。その入口の庇《ひさし》の所に相生警察署巡査合宿所とした文字があった。その先は広っ場になって向うの方にたくさんの人が動いていた。こちらの合宿所の隣の広っ場の縁になった所には、一筋の縄を張って一人の兵士が張番していた。私は気がついて縄を張ってあるあたりの地面に眼をやった。黒焦げになった死体があっちこっちに散らかっていた。私はいよいよこれが被服廠跡だと思って広っ場の中の方へと眼をやった。そうして私は眼先がくらくらするように思った。
 広っ場の中は一めんの死体で、ちょうど沖から帰って来た漁師が思い思いに海岸へ魚の盛りをこしらえて、仲買人の来るのを待っている時のように、人の盛りをこしらえてあった。それは二三十人ぐらいに見える所もあれば、百人ぐらいに見えるような所もあった。それは死骸を探しに来る遺族に判りやすくするためにこしらえたものであった。遠くの方で死者を弔う読経の声がしていた。
 五六人の者が兵士の傍へ往って何か交渉していた。私はすぐ死者を探している者でなければ中へ入れないと思ったので、地方の関係のある新聞社の名を名刺に肩書して兵士の所へ往った。兵士はすぐ私の入ることを承知した。私は右の手で手拭を持ってそれで口と鼻とを掩うて、左斜に広っ場を突き切るつもりで歩いた。私は一つ一つ死人を見ていては気持が悪くなって歩かれないと思ったので、一箇所に眼を留めずにして進んだ。溺死人のように脹れあがった者、腐った魚のように半身がどろどろになった者、黒焦げになった者、そうした死体が二町四方もあろうと思われる所を掩うて見えた。子供の死体もたくさん交っていた。女の死体の半焦げになった傍に小さな一|団《かた》まりの消炭のような物を置いてある所があった。私はそれは女の負ぶっていた子供の死体であろうと思った。
 風は正面から吹いていた。すこしでも手拭の覆いに隙ができると恐ろしい臭気が鼻を刺した。私はもう斜めに突き切るのが厭になったので、右の方の死体の少ない方に反れ反れして走った。
 鉄骨の建物があってその前にも二三人の人がいて火を焚いていた。私はその火が身寄りの者の死骸を焼いている火だということを知った。その中には女も一人交っていた。その人たちもそれぞれ鼻にハンカチをやっていた。私はその傍を通って左に建物の間を潜って往った。その建物を出はずれると焼け残りの塀があって、外は電車通りになっていた。
 私はその電車通りを歩きかけてから再び驚かされた。その被服廠跡と電車通りとを隔てた溝の中は、幾百幾千とも判らない、目刺鰯の束を焼いたようになった黒焦げの死体で埋まっていた。私は、なるほどこの被服廠跡の焼死者が三万余と言うのも誇大ではないと思った。その溝の上になった被服廠跡にはまだ動かさない死体の丘ができていて、それを人夫たちがおろして外へ運んでいる傍に、身寄りの者を尋ねているらしい人たちが散らばって、死体をあっちこっちと覗いていた。

 私は帰りに吾妻橋の袂から荷足船で兵士に渡してもらって、浅草公園へと廻った。公園では浅草寺と観音堂とが残っていた。その観音堂は銀杏《いちょう》の緑葉に取り囲まれて涼しい風を宿していた。花屋敷の焼け跡には一疋の猿が金網の中にきょとんとしており、十二階は地震のために上の三階が堕ちて九階になっていた。この十二階の建物は半カ月ばかりの後に爆薬で破壊してしまった。
 私は公園の山のベンチに腰をかけて、上野の山を眼界にして左右にひろびろと広がった白い焼野原を見ながら、花屋敷の前で買って来た梨の実を噛《かじ》った。鼻のどこかにまだ死体の厭な匂いが残っているような気がした。



底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
   1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
   1926(大正15年)12月
※「それぞれ鼻にハンカチを」の「それぞれ」は底本では「それそれ」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネ
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