供の手を曳いている者、衣類の入った箪笥の抽出しを肩にした者、シャツ一枚で金庫を提げた者、畳を担いだ者、猫のような老婆を負ぶった者、頭を血みどろにした若い男を横抱きにした者、そうした人たちが眼先が暗んでいるように紛紛として歩いていた。その人たちは頭髪を見なければ両性の区別がつかなかった。
砲兵工廠は火になっていた。春日町の方へと曲って往く電車線路の曲り角から、その一部の建物の屋根の青い焔を立てて燃えているのが見られた。私たちは安藤坂をおりて往った。砲兵工廠の火は、江戸川|縁《べり》にかけて立ち並んだ人家を包んで燃えていた。私たちはその江戸川縁を左に折れて往った。街路に沿うた方の家だけは地震に屋根瓦を震い落され、または簷を破られて傾きかけたままの姿を見せていた。小さい橋の袂《たもと》に一台のポンプがいて、川の泥水にゴム管を浸してそれを注いでいたが、すこしの効力があるとも思われなかった。
砲兵工廠の市兵衛|河岸《がし》に寄った方の三層の建物に、新しく火がかかっていた。その火の中から爆弾の音のような音が続けさまに起った。私たちは甲武線の汽車の線路に這いあがった。神田方面から飯田町にかけて一めんの火の海となり、強い風がその焔を煽って吹きつけていた。まだ火のかからない飯田町三丁目の電車停留場のあたりで、焔を浴びてあちらこちらする人びとの容が人形のように小さく見えた。空も遠くの方も濛濛たる煙に覆われて、四辺は気味悪く黄濁して見えた。いくらか遠退いて来たが、地の震えは歇まなかった。私はまだ何かしら大きな禍が来るような気がして不安であった。
東京全市三分の二を焦土と化した猛火の煙は、二つの大きな入道雲となって天の一方にもくもくと立ち昇っていた。それは白い牛乳色をした気味の悪い雲で、その下の方に鼠色の煙が渦を巻いていた。私はその雲を切支丹坂の樹木の上に見ていた。その雲は延びたり縮んだりした。江戸川の方から入って来る避難者の中には、おりおり振り返ってその雲を悲しそうな眼で見る者があった。陽が落ちると雲は真赤な火になった。
地の震いは二時間おきぐらいにやって来た。私たちは家内が持ち出して来た飯櫃《めしびつ》の飯を暗い中で手探りに喫って、その後で蒲団を取って来て一家四人が枕を並べて寝た。火は警視庁を焼き、帝劇を焼き、日本橋、京橋、浅草を焼き、本所深川を一舐めにして、圧死者の上へ無数の
前へ
次へ
全11ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング