起きた漁師夫婦は、利根川の流れに舟を浮べて網を入れた。其処には川を登らんとする驚くべき鮭の集団があった。未だ夜の明けきらないうちに、舟に充満《いっぱい》の鮭を獲った夫婦は、一度帰って来てから、また舟に充満《いっぱい》の魚を獲った。夫婦の漁を見つけて網を入れに来た者もかなりの漁はあったが、夫婦の漁の足もとに及ぶ者はなかった。
 その夜、彼の漁師の家では、酒を買い、肴をこしらえて、近隣の者に御馳走することにして、獲った鮭の中から旨そうな奴を選んで、それを料理した。と、その一つの腹から数多《たくさん》の蕎麦切が出て来た。魚を割いていた漁師は、旅僧に喫わした蕎麦のことを思いだして厭な気がした。
 貧しい漁師の家は、その日の漁に莫大な利益を得て、忽ち村一番の長者になり、何不自由のない身の上となったが、漁師の神経には、鮭の腹から出た蕎麦のことがこびりついて消えなかった。
 その前後から漁師の女房は妊娠して翌年の夏になって出産したが、それは醜い女の児で、そのうえ、顔には魚の胎児《はらご》のような赤い斑点があり、頭髪も縮れていた。その醜い我が子の顔を一眼見た女房は逆上して、それがために産後の肥立ちが悪
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング