黒い蝶
田中貢太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)([#「(」は底本では「「」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

          一

 義直は坂路をおりながらまた叔父のことを考へた。それは女と一緒にゐた時にも電車の中でも考へたことであつたが、しかしそれは、叔父が自分の帰りの遅いのを怒つて待つてゐるだらうと云ふことであつたが、あの時のはその叔父が自分の家へ来て坐つてゐるやうな感じが加はつてゐた。義直は困つたなと思つた。
(行つて来ましたが、和尚さんが留守でしたから、念のために明日の朝早くも一度行くことにして来ました、)
 行つたけれども留守であつたと云ふことにして、明日の朝行かうと考へてゐる弁解の言葉が、役立たないやうに思はれだした。彼は歩いて来た路が行き詰つたやうな気になつて歩くことを止めた。
(どう云つたものだらう、)
 暗いひつそりした坂路が自分の体を支へてゐた。義直は向ふの崖の上に眼をやつた。暗い屋根の並んだ上に不思議な形をした建物が聳えてゐた。建物の上には三ツの星があつた。それは石燈籠の上に祠をのつけたやうに見える塔であつた。彼は不思議な物を見付けたと云ふやうな眼付をしてそれを見詰めた。それは裁判官あがりの地主が建築したもので、二三年この方見慣れてゐる物であつた。
(――谷の怪塔、)
 青いぎらぎらした光がその塔の中から出て、それが蛇の畝るやうに光つた。塔の四方には一つづつの小さな窓があつて時とするとその窓から灯の見えることは義直の記憶にあつた。彼は今晩はその窓へ探照燈のやうな仕掛けでもして遊んでゐるのではないかと思つたが、もう何も見えなくなつて、塔の輪廓がまた薄くぼんやりと見えて来た。
(眼の具合であつたかな、今晩は別に灯も見えてゐるやうでない、)
 義直は時間のことを思ひだした。
(もう十時だらうか、)
 彼は女と別れて帰つて来た時のことを考へた。女は二人で飲んだ氷のコツプを盆へ載せておろして行つたが、あがつて来ると笑顔になつて了つた。
(もう十分過ぎてますよ。ついでに十一時まで好いでせう、十一時までいらつしやい、)
 朝の内に行けなかつたので、二時頃から郊外の寺へと出かけて行つたところが、電車の乗替へで女と出くはして無理に連れて行かれた。養父の一周忌のことであるからどうしても行かなくてはならないと思ひながら、ひつ張られて夕方になり、夕方がまた十時になり、その十時ももう十分過ぎてゐた。
(叔父が煩いから、帰らなくちやならない、もう、屹と一度や二度は女中をよこしてゐる、)
 それでも何かしらしてゐる内に、五分ぐらいは過ぎてゐたらうから、電車が三十分としても、もう十一時にはなつてゐる。仮令自分が来て待つてゐないまでも、屹と女中をよこして帰り次第家へ来るやうに云つて来さしてあるに違ひないと思つた。と、渋紙色の顔をして朝晩に何かをたくらんでゐるやうな、すこしも人に腹の奥底を見せない老人の顔が眼前に浮んで来た。
(あの旦那のためには、随分泣かされた人があると云ひますからね、ほんとにあの旦那は、恐ろしい方ですよ、それに、あなたとは、本当の叔父甥ぢや無いでしよ、)
 乳母が云つた言葉が浮んで来た。父の従弟にあたる信平は、体一つで東京へ出て来て、彼方此方と渡り歩いてゐる内に藤村と云ふ金貸をしてゐる家へ出入りするやうになつて、到頭其所の番頭のやうな者になつたが、主人が亡くなつて、その家が商売を止めることになると、ちよとした金を貰つて、主人の姪で寡婦になつてゐた者と結婚して家を持つたのであつた。
(信平のことぢや、何をしてをつたか判つたことぢやない、もうそれまでに、自分でうんと拵へてをつたに違ひないよ、)
(貰つたと云つても、それやたいしたものぢやないよ、自分で拵へてをつたからさ、どうしてあの男は、子供の時から、一筋縄では行かない奴だつたよ、)
 小さな時父親や知合の者がしてゐた叔父の噂を覚えてゐた。
(当節は、親子でも、兄弟でも、気が許されないのに、親類と云ふくらゐで、気を許しては駄目ですよ、)
 義直には乳母の云ふ言葉の意味が好く判つてゐた。
(家の旦那がこんなになつたのも、理由がありますよ、ほんとに恐ろしいことですよ、)
 養父は気が狂つて離屋の座敷牢の中にゐた。
(私はちやんと知つてますよ、それや、旦那のお父様も狂人で、皆が血統だと云ひますが、そんなことはありませんよ、私は、赤ちやんの時からお育てしましたが、お利巧な、落ついた方でしたよ、血統なんかぢやありませんよ、)
 宮原の家は藤村の遠縁に当る家であつた、信平は其所の一人者の若主人の後見するやうになつたので、自分の兄の子供を連れて来てそれと結婚さした。ところで、その女は事情も判らずに家出して行方が判らなくなり、それと一緒に男は発狂したのであつた。
(血統があつたにしても、ただでは狂人になりませんよ、狂人になるには、なるだけの訳がありますよ、あんなに可愛がつてゐらした奥さんを、あんなことにせられたもんですもの、何人だつて狂人になりますわ、皆悪い者にかどわかされたとか、身投げしたとか云つて、警察へ頼んだり、人を出して捜したりしましたが、そんなことで判るもんですか、川口に身投げの婦人があつたとか、永代橋の下に死人があつたとか云つて、皆で見に行つたりしましたが、そんな馬鹿なことをしてはゐませんよ、私は、警察なんて云ふものは馬鹿々々しいものだと思つてますよ、)
 義直は黒い毒々しい物の手が自分の頭の上におつかぶさつてゐるやうに思つた。彼はふと狂ふてゐた養父の言葉を思ひだした。それは白い陽が庭にあつて何所から来るともなしに小さな花弁が胡蝶のやうに飛んでゐる日であつた。彼は右の手に箒とはたきとを持ち、庭下駄を履いて離屋へと行つた。飛んでゐる小さな花弁が頬にちらちらと触れた。
 離屋の室は障子のかはりに格子戸を入れてあつた。義直は神の前にでも出るやうに謹厳な態度で縁側をあがつて、格子の隙間からちよと中を覗いた。其所には黄ろな顔をした頬のすつこけた男が腕組をして此方向きに坐つてゐた。それが養父の登であつた。義直はそれを見ると手に持つてゐる物を傍へ置いて、縁側に坐つて両手を突いた。
(お掃除を致しませう、)
 これは其所の養子として来て以来やつてゐる日課であつた。食事や寝起の世話は乳母がやつてゐた。養父は狂つた顔で何か考へ込んでゐるやうなふうで、見向きもしなかつた。で、初めよりすこし声を大きくして云つた。
(お掃除を致しませう、)
 養父の眼が動いた。
(お前は何人だ、)
 養父はうさんくささうに云つて眼を光らした。
(私は義直でございます、)
(義直とは何人だ、)
(此方でお世話になつてをります者でございます、)
(お世話つて、何人が、お世話になつてゐるんだ、)
 紫色になつた薄い下唇には、白い唾がからまつてゐた。
(私でございます、)
(私とは何人だ、)
(この義直でございます、)
(君は何しに此所へ来たんだね、なんの用事があつて此所へ来たんだ、)
 養父の声は尖りを帯びて来た。
(お掃除にあがりました、)
(嘘を吐け、そんな嘘を吐いたつて、俺はちやんと知つてるんだぞ、貴様は俺を殺しに来たんだらう、信平に頼まれて、俺を殺しに来たんだらう、)
 相手になつてはいけないので何も云はずに黙つてゐた。
(女房も殺した上に、俺までも殺して、俺の財産を取らうとしてゐるんだな、悪党、そんなことで貴様なんかに騙される俺ぢやないぞ、馬鹿野郎、)
 養父は飛びあがるやうに起ちあがつて、握つた右の手を突き出した。
(貴様なんかに殺されてたまるか、這入つてみろ俺が殺してやる、)
 それは朝から雨の降つてゐる冷え冷えとして気持の好い日であつた。養父は起つて室の中を歩いてゐた。
(お掃除を致しませう、)
 養父はちらと此方を見た後に、黙つて右の方の隅へ歩いて行つて立つた。で、袂から小さな鍵を出して、格子戸へかけてある海老錠を開けて、傍へ置いてあつた箒や塵取を持つて中へ這入つたが、病人に出られないやうにと好く後を締め、それからはたきで格子戸から鴨居へかけてはたきはじめた。
(おい、おい、)
 用事がありさうに呼ぶ声がするのではたきの手を止めて振り返つた。養父が痩せた骨張つた右の掌を見せて招いてゐる。
(ちよつと来て見たまへ、ちよつと来て見たまへ、)
 何事であらうかと寄つて行つた。
(はい、)
(君だけに話してやることがある、秘密の話だよ、決して人に云つてはならんぞ、)
(はい、決して口外致しません、)
(決して云つてはいけないぞ、大変な秘密なんだから、)
(はい、)
(もすこし寄つて来い、)
 なんだか気味が悪るかつたが、寄らない訳にも行かないので養父の顔の傍へ自分の顔を寄せて行つた。
(お前は、わしの家内のゐる所を知つてゐるのか、知らないだらう、それは、わし以外、何人も知らないことなんだ、決して云つてはならんぞ、これを人に云ふと、世間が大騒ぎになつて、警視総監は免職になるんだ、好いか、)
(はい、)
(大変な秘密なんだが、お前にだけ云つてやる、わしの家内は、この傍にゐるんだ、あれは死にもかどわかされもしてゐないぞ、すぐこの傍にゐるんだ、この――谷には、あかずの家と云ふ家があるんだ、お前達には判らないが、わしの眼にはちやんと見える、それは昔、切支丹屋敷にゐた伴天連が、封じて開かないやうにして、その上に人の眼に見えないやうにした屋敷なんだぞ、わしの家内は其所にゐるんだ、)
(はい、)
(あの悪党が、わしの家の財産を横領するために、わしを狂人にしやうと思つて、家内に悪い男をくつつけたんだ、家内も可愛さうだ、家内はわしに隠れて悪いことをしてゐる内に、ある晩、やはり男と密会に行く途で、その屋敷へ迷ひ込んで、そのまま出ることが出来ずにゐるんだ、その屋敷は、這入つて行くことは出来ても、一度這入つたなら、どうしても出られない所なんだ、)……
 義直の頭には奇怪な養父の言葉と共に、その時の光景が浮んで来た。彼は養家の財産を考へてみた。地所、公債、家作などを一緒にすると十万に近いものがあつた。
(この財産に叔父が眼を注けないこともない、)
 もしこれに眼を注けてゐるとしたら自分をどうするであらう、と義直は考へてみた。
「今晩は、」
 下からあがつて来た雪駄履きの者が声をかけた。義直は吃驚したが、その声は耳に慣れてゐる声であつた。彼れは擦れ違はうとする相手の顔を見た。それは白い木綿のふはふはした襦袢を着てゐる男で、坂のおり口の右角にある散髪屋の亭主であつた。
「ああ、散髪屋さんですか、」
「今晩は涼しいではございませんか、何所かのお帰りでございますか、」
「ああ、中野の方へ行つてまして、ね、……散歩ですか、」
「ひと廻りして来やうと思ひまして、ね、」
「ぢや、さよなら、」

          二

 義直は坂路をおりた。路の左側の高い板塀をした家の門燈が光つてゐた。円い電蓋の傍には青い楓の葉が見えてゐた。義直はその前へ行つたところで、また叔父のことを思ひだした。
(なんか云つて来てゐる、自分が来ないまでも、女中になんか云つて来さしてゐる、)
 義直は自分の頭の上におつかぶさつてゐる物の中から何か見付けやうとでもするやうにした。彼は見るともなしに向ふの崖の上に眼をやつた。崖の上になつた寄宿舎の屋根の上に、彼の塔は低く沈んで祠の所だけを見せてゐた。と、その塔の窓と思はれる所からさつきのやうに青いぎらぎらする光が見えた。
(おや、また光つたぞ、屹と彼の窓で何か悪戯をしてゐると見えるな、)
 黒い小さな動物がその光にでも乗つたやうに、すぐ眼の前でひらひらとした。それは黒い蝶か蝙蝠かと思はれるやうな羽の大きな物であつた。
(蝙蝠かな、)
 山の手の谷合の町には蝶も沢山ゐたが、夜飛ぶのは不思議なやうな気がした。小さな動物の姿は左側に見えてゐる門燈の光の中
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング