へ這入つて、その中でひらひらと飛んだ。やはり大きな蝶であつた。
(蝶だな、)
 叔父のことがまた浮んで来た。自分で来てゐないにしても、帰つて来たならすぐに来るやうに云つてよこしてあるに違ひないから、帰つたなら行かなければならない。そして行つたなら、和尚さんが留守であつたから、念のために明日の朝行つて来ると云はふ、もし云つて来てないなら、朝早く寺へ行つて来てからにしやう、行つて来た上なら叔父に逢つても気の強いところがあると思つた。またさうしないと明後日の費用を立て替へて貰ふにしても云ひ出しにくいのだと思つた。
(借してくれないことはないだらう、)
 春の頃から定まつてゐる小遣銭では足りないやうになつたから、十円二十円と云ふやうに借りてそれが百五六十円にもなつてゐるが、明後日のは内所の金でないし、従来の関係から云つても都合をつけてくれなくてはならない金である。
(それを二百円借りるなら、二三十円は残るだらうから、着物を買つてやらう、)
 ……二階の窓の先には小さな公園があつて、それをおほふた青葉が微風に動いてゐた。二人は寝そべつて話してゐた。
(何所かへ一晩泊りでゐらつしやらない、)
(行つても好いんです、)
 養父の一周忌も済まない際であるから贅沢な旅行などは出来なかつた。
(何所が好いでせう、木の青々する山があつたり、川があつたり、それで海のある所はないでせうか、)
(伊豆山か熱海なら好いでせう、温泉もあるんですよ、)
(さう、では、どつちかへまゐりませうか、)
(あなたは、病院の方は好いんですか、)
(構ひませんの、どうせ今来月の内に、二週間の休暇が貰へますから、)
(さうですか、ぢや、行つても好いんですね、)
(まゐりませう、……あなたは、)
 日返りに朝行つて晩に帰つて来るくらゐならどうにでもなるが、一泊するとなると何か口実が入ると思つたがちよと考へ出せなかつた。
(養父の一周忌がまだ済んでゐないから、威張つては行けないですが、都合して行つても好いんです、)
(でも、そんなことがあるなら、わるいでせう、一周忌が済んでからにしようぢやありませんか、私もそんなに行きたくはないんですもの、)
 何所か弱い蔭地に咲く花のやうな感じのする女は、たいていの場合に自分の言葉を通さうとはしなかつた。それが物足りなくもあれば可愛くもあつた。
(何か口実をこしらへるなら、行つても好いんですよ、)
(わるいわ、そんなことをしては、一周忌が済んでから、連れてつてくださいよ、私も来月ならゆつくり出来ますわ、)
(さう、では、来月にして、何か買つてあげやう、何が好いんです、)
 かはりになにか買つてでもやらないと済まないやうな気がした。
([#「(」は底本では「「」]さうね、私は、着替の単物が一枚欲しいと思つてるんですが……、)
(単物、買つてあげよう、)
 買つてやると云つても五円の小遣にも困つてゐるからすぐは買へないが、月末になれば十円や二十円はどうにでもなると思つた。それに一周忌も近いからその時になれば、二三十円の金は都合がつくやうな気がしてゐた。
(二十一二日頃まで待つてお出で、買つてあげるから、)
 二十日が一周忌に当つてゐた。
(さう、有難いわね、でも、無理に買つていただかなくても好いんですよ、)
(なに大丈夫だよ、まだ叔父が干渉して、金のことなんか勝手にはならないけど、それくらゐのことはどうにでもなるんです、)
(奥様をお持ちになるまで、叔父さんが後見なさるでせう、何時お持ちになります、)
 女は笑顔を見せた。その右の眼頭は赤く充血してゐた。……
 蚊の声が右の耳元で聞えたので、義直は片手をやつて払ふやうにした。もう坂路をおりてしまつて散髪屋の角を曲らうとしてゐた。それは坂のおり口で逢ふた散髪屋の家であつた。義直は其所へ眼をやつた。ガラス戸の内に白いカーテンがおりて薄暗い灯が射してゐた。四辺に濃い闇がしつとりと拡がつて、両側を流れてゐる泥溝の水がびちびちと鳴つてゐた。
 大雨の時には地上水が溢れる通りであつた。その通りにすぐ門口を喰付けたり、奥深く引込んだりした人家が、ぼつぼつ門燈を見せて歯の抜けたやうに並んでゐたが、もう多く寝てゐると見えて人声もしなかつた。その内で左側に唯一つ門口に一面に灯が射して明るい家があつた。それは義直の家の隣になつた氷屋であつた。
(氷屋で聞けば、叔父の来たか来ないかが判るな、)
 氷屋の老婆と娘とが自分のために叔父の見張をしてくれてゐるやうな感じがした。彼の脚は自然と早くなつた。
 若い男の笑ふ声が聞えて来た。氷屋に来てゐる学生であらう。それは屈託のない澄んだ声であつた。
(――学校の学生だらう、)
 店の入口の右側に並べた水菓子の紅や黄ろが白いカーテンの間から見えて来た。若い男の笑声が止んで高い声で話すのが聞えた。
「おや、今晩は、今、お帰りでございますか、」
 入口のカーテンの下に面長な女の顔が見えた。それは氷屋の娘であつた。
「二時頃から中野の方へ行つてましてね、帰りに道寄りしてましたから、遅くなりました、」
 義直は脚を止めてゐた。
「おや、中野へ、それは大変でございましたね、お暑かつたでございませう、」
「暑いですな、それでも今晩は涼しいぢやありませんか、」
 店の中で年老つた女の声がした。娘がそれに返事をした。
「宮原の若さんですよ、」
 娘はまた義直の方に黒い眼を見せた。
「今日は、割合にお涼しうでございますね、まあ、ちとおかけくださいまし、」
「有難う、……叔父が夕方になつて見えなかつたでせうか、」
「山本の旦那さまでございますか、お見えにならなかつたやうでございます、が、」
 娘の顔は斜に内の方へと向いた。
「お母さん、今日、夕方、山本の旦那さまが、宮原さんへゐらしたか知らないこと、」
 老婆の声がかすれたやうに聞えて来た。
「……山本の旦那さま、お見えにならないやうだよ、お女中さんは、夕方ゐらしたのか、帰るところをちらと見かけたが……、」
「さう、」
 娘はまた此方を向いた。
「お女中さんだけは、お見かけしたさうでございますが、」
 それではやはり女中を呼びによこしたもんだと義直は思つた。
「さうでしたかね、明後日が一周忌だもんですから、中野のお寺へ行つてたんですよ、」
「さうでございますか、もう一周忌、お早いものでございますね、」
「早いもんですよ、今日、お寺へ行つて、夕方に帰つて来るのを、道寄してましたから、叔父が待ち遠しがつて、来たんぢやないかと思ひましてね、ぢや、自分に来ずに女中をよこしたもんでせう、」
 帰つたならすぐ来るやうにと云つて来てゐるだらうと思つた。彼は早く家へ帰つてみやうと思つた。娘が驚いたやうに云つた。
「蝶だよ、まあ、大きな蝶だよ、」
 娘は体をがたがたと動かした。
「なんだ、吃驚さするぢやないか、」
 若い男が笑ひながら云つた。
「真黒い奴だな、あの博物の教師に持つててやらうか、」
 それは違つた若い男の声であつた。
「薄気味の悪い、杉浦さん、どうかしてくださいよ、あれ、あんなに、なにか考へでもあるやうに電燈のまはりを飛ぶんぢやありませんか、」
 娘はさも気味悪いと云ふやうな声で云つた。
(黒い蝶、さつきにも黒い蝶がゐたな、)
 義直はふと蝶のことを考へた。
「殺しちや駄目よ、粉が落ちるんですから、殺さずに追つてくださいよ、」
「こん畜生、出て行かないのか、こらッ、こらッ、こらッ[#「こらッ、こらッ、こらッ」はママ]」
「おやゐなくなつたよ、ゐなくなつたぢやありませんか、何処へ行つたんでせう、不思議ぢやありませんか、」
 ……乳母が昼飯の膳を飯鉢の上に乗せて、廊下伝ひに行くを見ながら、隣から遊びに来てゐる女の子を縁先へ立たして、その顔をスケッチ[#「スケッチ」はママ]してゐた。暑い風の無い日で、油蝉の声が裏の崖の方から炙りつくやうに聞えてゐた。
(まだ書けないの、)
 女の子は待ち遠しさうに聞いた。
(もうすこしだ、もうすこしだよ、)
 ふたかは眼になつた特徴のある子供の顔を遺憾なしに写さうと思つて、一心になつて鉛筆を動かしてゐた。
(さあ、もうすこしだ、もうちよつとさうしてゐらつしやい、)
 離屋の方で乳母の周章てたやうな声が聞えた。
(……駄目ですよ、何をなさるんですよ、)
 養父が何をはじめたであらうかと思つて、鉛筆を控へて内庭越しに離屋の方を見た。母屋から鍵の手のやうに折れ曲つた所に小さな軒を喰付けた離屋は、端板一つで母屋と繋がつてゐた。
(旦那様、そんなことをなすつては、御病気にさはります、)
 乳母の声は何か仕やうとする主人をやつと支へてゐるやうな声であつた。
(駄目ですよ、あれ、駄目ですよ、あれ、何人か、早く、)
 格子戸の口ががたがたと開いたかと思ふと、中から養父が出て来て縁側に立つた。と続いて乳母が出て来た。
(しまつた、)
 左の手にスケツチブツクを掴み、右の手に鉛筆を持つたなりに起ちあがつた。
(旦那様、そんなことをなすつては困りますよ、)
 乳母は、怒るやうに云つて養父の手を掴まふとした。養父はその手を片手で払ひ除けながら、一方の手を庭の方へやつて、その指先のあたりを睨むやうにして何か云つた。
(中へ入れなくちやいけない、)
 スケツチブツクと鉛筆を投げるやうに置いて、廊下伝ひに行きながらも、なるだけ足音をしないやうにと足を爪立てて注意しいしい歩いた。
(見えるか、見ろ、見ろ、あれを見ろ、)
 養父は大きな声をするのも恐ろしいと云ふやうにして云つた。
(何がお見えになります、何も見えないぢやありませんか、)
 乳母は狂はない主人を強ひて掴まへることも出来ないと云ふやうにして困つた顔をしてゐた。
(見えない、あれ、あれが見えないのか、)
 養父は人さし指の先を顫はしてゐた。
(何も見えは致しませんよ、それはお気の勢でございますよ、早く室へお帰りになつて、御飯をおあがりなさいまし、何もゐはしませんよ、)
(ゐないことがあるか、あれを、あの黒い蝶がみえないのか、あの蝶が、)
(蝶なんか見えませんよ、それは旦那様の気の勢でございますよ、)
(見えないことがあるか、あの黒い蝶が、あの蝶を、お前はなんと思つてるんだ、あれや、大変な奴だぞ、)
 養父はさう云つて四辺を白い凄い眼で見廻はしてゐたが、いきなり庭へ飛びおりた。
(あれ、旦那様、)
 乳母が驚いて庭におりたので、続いて飛びおりたところで、養父はぎらぎらする陽の光を潜つて板塀の傍へちよこちよこと小走りに走つて行つて、其所の花壇の朝顔に立てた女竹の一本を抜いたその女竹に絡んで咲いてゐた朝顔の萎れた紫の花が、一二枚の葉の付いた蔓と一緒になつて飛んだ。
(旦那様、旦那様、)
 乳母はその方へと追つて行つた。養父は乳母の方を睨みつけた。
(邪魔をするな、邪魔をすると承知しないぞ、これをそのままにして置いて、どうするつもりなんだ、馬鹿、)
 乳母は近くへ寄ることが出来なかつた。乳母の後へ行つた自分もどうすることも出来ないのではらはらして立つてゐた。
 養父は凄い眼をもう空間にやつて、怪しい物の影を覘ふやうにしてゐたが、やがてその覘がついたのか、手にしてゐた竹を振りあげてなぐりつけた。
(こら、)
 怪しい物の影はそれで飛んで行つたのか、養父はまた竹を振りあげながら空間を覘つた。
(こら、)
 怪しい物の影はまたそれたものと見える。
(しまつた、畜生、)
 養父はまた一足二足歩いて行つて、また空間をなぐりつけた。
(今度こそどうだ、)
 養父はなぐりつけた跡をちよつと見たが口惜しさうな顔をした。
(また逃げやがつた、畜生、逃がすものか、)
 竹はまた閃いた。
(これでもか、これでもか、こら、これでもか、)
 養父はもう見界なしに、そのあたりをなぐつて歩いた。
(こら、これでもか、これでもか、畜生、これでもか、)
 養父の叫び声が物凄く聞えた。
(若旦那、仕方がありません、無理にでも室へおあげしませう、)
 乳母が此方を向いて決心したやうに云つた。
(さうだね、仕方がない、押へつけやう、
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