の下に腰をかけて動かずにゐる島田の女の方を見た。と島田の女の眼がぱつちり開いてそれに笑が湧いた。
「姉さん、ぜんたい此所は何所だ、」
洋服の女は此方に顔を向けた。
「お判りになりませんか、」
「判らないね、」
「すぐお判りになりさうなもんですが、」
「判らないね、場所も判らなければ、時間も判らないね、」
「どうかなされていらつしやるんですね、」
「どうかしてゐるか、それも判らないんだ、」
「ぜんたいどうなすつたんです、」
「それが判らないね、云つておくれ、場所と時間を早く云つておくれ、それが判れば、思ひだせるだらう、」
「そんなつまらないことが判らなくつたつて、好いぢやありませんか、」
「つまらないことぢやない、大事のことなんだ、早く場所と時間とを知らしてくれ、ぜんたい此所は何所なんだ、そして幾時なんだ、」
島田の女が起きあがつた。
「蝶がきてよ、」
義直は顔をあげて天井の方を見た。天井に黄ろに燃えてゐる瓦斯燈が三つばかりあつた。
「あなた、」
後の方で聴き覚えのある女の声がした。義直はそれを聴くと急いで振り返つた。それは水色の地に紺の碁盤目の著物を白い肌につけた彼の女であつた。
「あゝ、あなたか、」
「何時、此所へいらしたんです、」
「今のさき来たばかりなんだ、ぜんたい、今、幾時です、」
「さあ、幾時ですか、まあ、そんなことは好いぢやありませんか、」
「時間と場所を聞かないと、何が何やらさつぱり判らなくなつてゐるんです、云つて下さい、」
「そんなことは好いぢやありませんか、私は、睡れないから曹達水でも戴かうと思つてまゐりましたよ。」
女はかう云ひ義直の傍の椅子に腰をかけた。
「今晩はゆつくりぢやございませんか、曹達水を持つてまゐりませうか、」
傍に立つてゐた洋服の女が親切さうな口を利いた。
「あゝ、レモンにして持つて来てください、」
洋服の女が向ふの方へ行くと、女は義直の顔を見た。
「あなたも、曹達水をおあがりになつては如何です、」
義直は女がそんなことを云ふのがもどかしかつた。
「ビールを飲んだから好い、そんなことより、此所は何所です、どうしても僕には判らないんです、云つてください、場所と時間が判らないと、僕の頭は何にも思ひだせないです、」
「そんなつまらないことは好いぢやありませんか、」
女は笑つた。曹達水のコツプを持つた洋服の女が傍へ来てゐた。
「この方は、さつきから、あんなことを云つてらつしやるんですよ、つまらないことぢやありませんか、」
曹達水のコツプは女の前に行つた。
「さうですよ、本当につまらないことですよ、」
義直は困つてしまつた。
「つまらないことぢやないです、僕にとつては大事のことなんです、云つてください、」
「私が云はないたつて、今に知れますよ、ぢつとしてゐらつしやい、」
「駄目ですよ、何故あなたは、私がこんなに頼むのに云つてくれないのです、」
女は曹達水を飲んでゐた。
「そんな無理を云ふものぢやありませんよ、あまり無理を云ふと、私は行つちまひますよ、」
「ぢや、どうしても云つてくださらないですか、」
「それが無理ですよ、ぢつとしてゐらつしやい、」
義直はもう泣き出しさうな声になつてゐた。
「何故云つてくれないです、僕はあなただけが判つてゐて、他のことが何も判らないです、」
「では、三階へゐらつしやい、判るやうにしてあげますから、」
義直は嬉しかつた。
「では、すぐ三階へ行きませう、」
「まゐりませう、」
義直と一緒に女も腰をあげた。義直は青い服を着た男のゐるテーブルの前を通つて、其所に見えてゐる寒水石の階段をあがつて行つた。その階段は螺旋形になつてゐた。義直は自分の後からあがつて来る女の髪に眼を落した。それはエス巻のやうにしてその下に蝙蝠か何かの羽をひろげたやうにリボンをかけてゐた。
二階の室には其所に円いテーブルを控へてあつたが、何人も人は見えなかつた。義直はその室を見流しながら三階へ通じた階段をあがつて行つた。
三階の室は薄黄ろな広い室であつた。室の中には其所此所にテーブルを置いて、男とも女とも判らない人の影が、其所にぽつり此所にぽつりと云ふやうに見えてゐた。義直は何所へ行つて腰をかけたものであらうかとちよと躊躇した。
「此方へゐらつしやい、」
正面のテーブルにゐた者が手をあげて招いた。義直は何人か知つた人だらうかと思ひながら一足二足行つて覗いた。二十三四に見える小柄な綺麗な女であつた。
「ゐらつしやいよ、これから友達になるんぢやありませんか、」
義直は何所か見たやうなことのある女だと思つたが、何人であるのか思ひ出せなかつた。
「もう判つたでせう、私よ、」
女は笑つたが義直には判らなかつた。
「義直さん、私が判らない、写真で見てやしない、」
義直の頭にちら/\と閃いたものがある。
「私、叔母よ、」
それは亡くなつた養父がこのあたりの不思議の家にゐると云つた養母であつた。義直は吃驚して階段をかけおり下駄も履かずに門口へ出やうとした。と、今まで開いてゐたガラス戸が急に両方から締つて来てぴつしやりと合つてしまつた。義直は周章てゝそれを開けやうとしたが開かなかつた。彼は四枚あるガラス戸を彼方此方と動かして見たが、一枚板のやうにびつちりと喰付いてしまつて動きもしなかつた。
義直はその夜から蹤跡が判らなくなつてしまつた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
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