だ、)
(はい、)
(あの悪党が、わしの家の財産を横領するために、わしを狂人にしやうと思つて、家内に悪い男をくつつけたんだ、家内も可愛さうだ、家内はわしに隠れて悪いことをしてゐる内に、ある晩、やはり男と密会に行く途で、その屋敷へ迷ひ込んで、そのまま出ることが出来ずにゐるんだ、その屋敷は、這入つて行くことは出来ても、一度這入つたなら、どうしても出られない所なんだ、)……
 義直の頭には奇怪な養父の言葉と共に、その時の光景が浮んで来た。彼は養家の財産を考へてみた。地所、公債、家作などを一緒にすると十万に近いものがあつた。
(この財産に叔父が眼を注けないこともない、)
 もしこれに眼を注けてゐるとしたら自分をどうするであらう、と義直は考へてみた。
「今晩は、」
 下からあがつて来た雪駄履きの者が声をかけた。義直は吃驚したが、その声は耳に慣れてゐる声であつた。彼れは擦れ違はうとする相手の顔を見た。それは白い木綿のふはふはした襦袢を着てゐる男で、坂のおり口の右角にある散髪屋の亭主であつた。
「ああ、散髪屋さんですか、」
「今晩は涼しいではございませんか、何所かのお帰りでございますか、」
「ああ、中野の方へ行つてまして、ね、……散歩ですか、」
「ひと廻りして来やうと思ひまして、ね、」
「ぢや、さよなら、」

          二

 義直は坂路をおりた。路の左側の高い板塀をした家の門燈が光つてゐた。円い電蓋の傍には青い楓の葉が見えてゐた。義直はその前へ行つたところで、また叔父のことを思ひだした。
(なんか云つて来てゐる、自分が来ないまでも、女中になんか云つて来さしてゐる、)
 義直は自分の頭の上におつかぶさつてゐる物の中から何か見付けやうとでもするやうにした。彼は見るともなしに向ふの崖の上に眼をやつた。崖の上になつた寄宿舎の屋根の上に、彼の塔は低く沈んで祠の所だけを見せてゐた。と、その塔の窓と思はれる所からさつきのやうに青いぎらぎらする光が見えた。
(おや、また光つたぞ、屹と彼の窓で何か悪戯をしてゐると見えるな、)
 黒い小さな動物がその光にでも乗つたやうに、すぐ眼の前でひらひらとした。それは黒い蝶か蝙蝠かと思はれるやうな羽の大きな物であつた。
(蝙蝠かな、)
 山の手の谷合の町には蝶も沢山ゐたが、夜飛ぶのは不思議なやうな気がした。小さな動物の姿は左側に見えてゐる門燈の光の中へ這入つて、その中でひらひらと飛んだ。やはり大きな蝶であつた。
(蝶だな、)
 叔父のことがまた浮んで来た。自分で来てゐないにしても、帰つて来たならすぐに来るやうに云つてよこしてあるに違ひないから、帰つたなら行かなければならない。そして行つたなら、和尚さんが留守であつたから、念のために明日の朝行つて来ると云はふ、もし云つて来てないなら、朝早く寺へ行つて来てからにしやう、行つて来た上なら叔父に逢つても気の強いところがあると思つた。またさうしないと明後日の費用を立て替へて貰ふにしても云ひ出しにくいのだと思つた。
(借してくれないことはないだらう、)
 春の頃から定まつてゐる小遣銭では足りないやうになつたから、十円二十円と云ふやうに借りてそれが百五六十円にもなつてゐるが、明後日のは内所の金でないし、従来の関係から云つても都合をつけてくれなくてはならない金である。
(それを二百円借りるなら、二三十円は残るだらうから、着物を買つてやらう、)
 ……二階の窓の先には小さな公園があつて、それをおほふた青葉が微風に動いてゐた。二人は寝そべつて話してゐた。
(何所かへ一晩泊りでゐらつしやらない、)
(行つても好いんです、)
 養父の一周忌も済まない際であるから贅沢な旅行などは出来なかつた。
(何所が好いでせう、木の青々する山があつたり、川があつたり、それで海のある所はないでせうか、)
(伊豆山か熱海なら好いでせう、温泉もあるんですよ、)
(さう、では、どつちかへまゐりませうか、)
(あなたは、病院の方は好いんですか、)
(構ひませんの、どうせ今来月の内に、二週間の休暇が貰へますから、)
(さうですか、ぢや、行つても好いんですね、)
(まゐりませう、……あなたは、)
 日返りに朝行つて晩に帰つて来るくらゐならどうにでもなるが、一泊するとなると何か口実が入ると思つたがちよと考へ出せなかつた。
(養父の一周忌がまだ済んでゐないから、威張つては行けないですが、都合して行つても好いんです、)
(でも、そんなことがあるなら、わるいでせう、一周忌が済んでからにしようぢやありませんか、私もそんなに行きたくはないんですもの、)
 何所か弱い蔭地に咲く花のやうな感じのする女は、たいていの場合に自分の言葉を通さうとはしなかつた。それが物足りなくもあれば可愛くもあつた。
(何か口実をこしらへるなら、行つても
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