つたので、自分の兄の子供を連れて来てそれと結婚さした。ところで、その女は事情も判らずに家出して行方が判らなくなり、それと一緒に男は発狂したのであつた。
(血統があつたにしても、ただでは狂人になりませんよ、狂人になるには、なるだけの訳がありますよ、あんなに可愛がつてゐらした奥さんを、あんなことにせられたもんですもの、何人だつて狂人になりますわ、皆悪い者にかどわかされたとか、身投げしたとか云つて、警察へ頼んだり、人を出して捜したりしましたが、そんなことで判るもんですか、川口に身投げの婦人があつたとか、永代橋の下に死人があつたとか云つて、皆で見に行つたりしましたが、そんな馬鹿なことをしてはゐませんよ、私は、警察なんて云ふものは馬鹿々々しいものだと思つてますよ、)
義直は黒い毒々しい物の手が自分の頭の上におつかぶさつてゐるやうに思つた。彼はふと狂ふてゐた養父の言葉を思ひだした。それは白い陽が庭にあつて何所から来るともなしに小さな花弁が胡蝶のやうに飛んでゐる日であつた。彼は右の手に箒とはたきとを持ち、庭下駄を履いて離屋へと行つた。飛んでゐる小さな花弁が頬にちらちらと触れた。
離屋の室は障子のかはりに格子戸を入れてあつた。義直は神の前にでも出るやうに謹厳な態度で縁側をあがつて、格子の隙間からちよと中を覗いた。其所には黄ろな顔をした頬のすつこけた男が腕組をして此方向きに坐つてゐた。それが養父の登であつた。義直はそれを見ると手に持つてゐる物を傍へ置いて、縁側に坐つて両手を突いた。
(お掃除を致しませう、)
これは其所の養子として来て以来やつてゐる日課であつた。食事や寝起の世話は乳母がやつてゐた。養父は狂つた顔で何か考へ込んでゐるやうなふうで、見向きもしなかつた。で、初めよりすこし声を大きくして云つた。
(お掃除を致しませう、)
養父の眼が動いた。
(お前は何人だ、)
養父はうさんくささうに云つて眼を光らした。
(私は義直でございます、)
(義直とは何人だ、)
(此方でお世話になつてをります者でございます、)
(お世話つて、何人が、お世話になつてゐるんだ、)
紫色になつた薄い下唇には、白い唾がからまつてゐた。
(私でございます、)
(私とは何人だ、)
(この義直でございます、)
(君は何しに此所へ来たんだね、なんの用事があつて此所へ来たんだ、)
養父の声は尖りを帯びて来た。
(お掃除にあがりました、)
(嘘を吐け、そんな嘘を吐いたつて、俺はちやんと知つてるんだぞ、貴様は俺を殺しに来たんだらう、信平に頼まれて、俺を殺しに来たんだらう、)
相手になつてはいけないので何も云はずに黙つてゐた。
(女房も殺した上に、俺までも殺して、俺の財産を取らうとしてゐるんだな、悪党、そんなことで貴様なんかに騙される俺ぢやないぞ、馬鹿野郎、)
養父は飛びあがるやうに起ちあがつて、握つた右の手を突き出した。
(貴様なんかに殺されてたまるか、這入つてみろ俺が殺してやる、)
それは朝から雨の降つてゐる冷え冷えとして気持の好い日であつた。養父は起つて室の中を歩いてゐた。
(お掃除を致しませう、)
養父はちらと此方を見た後に、黙つて右の方の隅へ歩いて行つて立つた。で、袂から小さな鍵を出して、格子戸へかけてある海老錠を開けて、傍へ置いてあつた箒や塵取を持つて中へ這入つたが、病人に出られないやうにと好く後を締め、それからはたきで格子戸から鴨居へかけてはたきはじめた。
(おい、おい、)
用事がありさうに呼ぶ声がするのではたきの手を止めて振り返つた。養父が痩せた骨張つた右の掌を見せて招いてゐる。
(ちよつと来て見たまへ、ちよつと来て見たまへ、)
何事であらうかと寄つて行つた。
(はい、)
(君だけに話してやることがある、秘密の話だよ、決して人に云つてはならんぞ、)
(はい、決して口外致しません、)
(決して云つてはいけないぞ、大変な秘密なんだから、)
(はい、)
(もすこし寄つて来い、)
なんだか気味が悪るかつたが、寄らない訳にも行かないので養父の顔の傍へ自分の顔を寄せて行つた。
(お前は、わしの家内のゐる所を知つてゐるのか、知らないだらう、それは、わし以外、何人も知らないことなんだ、決して云つてはならんぞ、これを人に云ふと、世間が大騒ぎになつて、警視総監は免職になるんだ、好いか、)
(はい、)
(大変な秘密なんだが、お前にだけ云つてやる、わしの家内は、この傍にゐるんだ、あれは死にもかどわかされもしてゐないぞ、すぐこの傍にゐるんだ、この――谷には、あかずの家と云ふ家があるんだ、お前達には判らないが、わしの眼にはちやんと見える、それは昔、切支丹屋敷にゐた伴天連が、封じて開かないやうにして、その上に人の眼に見えないやうにした屋敷なんだぞ、わしの家内は其所にゐるん
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