好いんですよ、)
(わるいわ、そんなことをしては、一周忌が済んでから、連れてつてくださいよ、私も来月ならゆつくり出来ますわ、)
(さう、では、来月にして、何か買つてあげやう、何が好いんです、)
 かはりになにか買つてでもやらないと済まないやうな気がした。
([#「(」は底本では「「」]さうね、私は、着替の単物が一枚欲しいと思つてるんですが……、)
(単物、買つてあげよう、)
 買つてやると云つても五円の小遣にも困つてゐるからすぐは買へないが、月末になれば十円や二十円はどうにでもなると思つた。それに一周忌も近いからその時になれば、二三十円の金は都合がつくやうな気がしてゐた。
(二十一二日頃まで待つてお出で、買つてあげるから、)
 二十日が一周忌に当つてゐた。
(さう、有難いわね、でも、無理に買つていただかなくても好いんですよ、)
(なに大丈夫だよ、まだ叔父が干渉して、金のことなんか勝手にはならないけど、それくらゐのことはどうにでもなるんです、)
(奥様をお持ちになるまで、叔父さんが後見なさるでせう、何時お持ちになります、)
 女は笑顔を見せた。その右の眼頭は赤く充血してゐた。……
 蚊の声が右の耳元で聞えたので、義直は片手をやつて払ふやうにした。もう坂路をおりてしまつて散髪屋の角を曲らうとしてゐた。それは坂のおり口で逢ふた散髪屋の家であつた。義直は其所へ眼をやつた。ガラス戸の内に白いカーテンがおりて薄暗い灯が射してゐた。四辺に濃い闇がしつとりと拡がつて、両側を流れてゐる泥溝の水がびちびちと鳴つてゐた。
 大雨の時には地上水が溢れる通りであつた。その通りにすぐ門口を喰付けたり、奥深く引込んだりした人家が、ぼつぼつ門燈を見せて歯の抜けたやうに並んでゐたが、もう多く寝てゐると見えて人声もしなかつた。その内で左側に唯一つ門口に一面に灯が射して明るい家があつた。それは義直の家の隣になつた氷屋であつた。
(氷屋で聞けば、叔父の来たか来ないかが判るな、)
 氷屋の老婆と娘とが自分のために叔父の見張をしてくれてゐるやうな感じがした。彼の脚は自然と早くなつた。
 若い男の笑ふ声が聞えて来た。氷屋に来てゐる学生であらう。それは屈託のない澄んだ声であつた。
(――学校の学生だらう、)
 店の入口の右側に並べた水菓子の紅や黄ろが白いカーテンの間から見えて来た。若い男の笑声が止んで高い声で話すのが聞えた。
「おや、今晩は、今、お帰りでございますか、」
 入口のカーテンの下に面長な女の顔が見えた。それは氷屋の娘であつた。
「二時頃から中野の方へ行つてましてね、帰りに道寄りしてましたから、遅くなりました、」
 義直は脚を止めてゐた。
「おや、中野へ、それは大変でございましたね、お暑かつたでございませう、」
「暑いですな、それでも今晩は涼しいぢやありませんか、」
 店の中で年老つた女の声がした。娘がそれに返事をした。
「宮原の若さんですよ、」
 娘はまた義直の方に黒い眼を見せた。
「今日は、割合にお涼しうでございますね、まあ、ちとおかけくださいまし、」
「有難う、……叔父が夕方になつて見えなかつたでせうか、」
「山本の旦那さまでございますか、お見えにならなかつたやうでございます、が、」
 娘の顔は斜に内の方へと向いた。
「お母さん、今日、夕方、山本の旦那さまが、宮原さんへゐらしたか知らないこと、」
 老婆の声がかすれたやうに聞えて来た。
「……山本の旦那さま、お見えにならないやうだよ、お女中さんは、夕方ゐらしたのか、帰るところをちらと見かけたが……、」
「さう、」
 娘はまた此方を向いた。
「お女中さんだけは、お見かけしたさうでございますが、」
 それではやはり女中を呼びによこしたもんだと義直は思つた。
「さうでしたかね、明後日が一周忌だもんですから、中野のお寺へ行つてたんですよ、」
「さうでございますか、もう一周忌、お早いものでございますね、」
「早いもんですよ、今日、お寺へ行つて、夕方に帰つて来るのを、道寄してましたから、叔父が待ち遠しがつて、来たんぢやないかと思ひましてね、ぢや、自分に来ずに女中をよこしたもんでせう、」
 帰つたならすぐ来るやうにと云つて来てゐるだらうと思つた。彼は早く家へ帰つてみやうと思つた。娘が驚いたやうに云つた。
「蝶だよ、まあ、大きな蝶だよ、」
 娘は体をがたがたと動かした。
「なんだ、吃驚さするぢやないか、」
 若い男が笑ひながら云つた。
「真黒い奴だな、あの博物の教師に持つててやらうか、」
 それは違つた若い男の声であつた。
「薄気味の悪い、杉浦さん、どうかしてくださいよ、あれ、あんなに、なにか考へでもあるやうに電燈のまはりを飛ぶんぢやありませんか、」
 娘はさも気味悪いと云ふやうな声で云つた。
(黒い蝶、さつきにも黒い蝶がゐ
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