たな、)
 義直はふと蝶のことを考へた。
「殺しちや駄目よ、粉が落ちるんですから、殺さずに追つてくださいよ、」
「こん畜生、出て行かないのか、こらッ、こらッ、こらッ[#「こらッ、こらッ、こらッ」はママ]」
「おやゐなくなつたよ、ゐなくなつたぢやありませんか、何処へ行つたんでせう、不思議ぢやありませんか、」
 ……乳母が昼飯の膳を飯鉢の上に乗せて、廊下伝ひに行くを見ながら、隣から遊びに来てゐる女の子を縁先へ立たして、その顔をスケッチ[#「スケッチ」はママ]してゐた。暑い風の無い日で、油蝉の声が裏の崖の方から炙りつくやうに聞えてゐた。
(まだ書けないの、)
 女の子は待ち遠しさうに聞いた。
(もうすこしだ、もうすこしだよ、)
 ふたかは眼になつた特徴のある子供の顔を遺憾なしに写さうと思つて、一心になつて鉛筆を動かしてゐた。
(さあ、もうすこしだ、もうちよつとさうしてゐらつしやい、)
 離屋の方で乳母の周章てたやうな声が聞えた。
(……駄目ですよ、何をなさるんですよ、)
 養父が何をはじめたであらうかと思つて、鉛筆を控へて内庭越しに離屋の方を見た。母屋から鍵の手のやうに折れ曲つた所に小さな軒を喰付けた離屋は、端板一つで母屋と繋がつてゐた。
(旦那様、そんなことをなすつては、御病気にさはります、)
 乳母の声は何か仕やうとする主人をやつと支へてゐるやうな声であつた。
(駄目ですよ、あれ、駄目ですよ、あれ、何人か、早く、)
 格子戸の口ががたがたと開いたかと思ふと、中から養父が出て来て縁側に立つた。と続いて乳母が出て来た。
(しまつた、)
 左の手にスケツチブツクを掴み、右の手に鉛筆を持つたなりに起ちあがつた。
(旦那様、そんなことをなすつては困りますよ、)
 乳母は、怒るやうに云つて養父の手を掴まふとした。養父はその手を片手で払ひ除けながら、一方の手を庭の方へやつて、その指先のあたりを睨むやうにして何か云つた。
(中へ入れなくちやいけない、)
 スケツチブツクと鉛筆を投げるやうに置いて、廊下伝ひに行きながらも、なるだけ足音をしないやうにと足を爪立てて注意しいしい歩いた。
(見えるか、見ろ、見ろ、あれを見ろ、)
 養父は大きな声をするのも恐ろしいと云ふやうにして云つた。
(何がお見えになります、何も見えないぢやありませんか、)
 乳母は狂はない主人を強ひて掴まへることも出来ないと云ふやうにして困つた顔をしてゐた。
(見えない、あれ、あれが見えないのか、)
 養父は人さし指の先を顫はしてゐた。
(何も見えは致しませんよ、それはお気の勢でございますよ、早く室へお帰りになつて、御飯をおあがりなさいまし、何もゐはしませんよ、)
(ゐないことがあるか、あれを、あの黒い蝶がみえないのか、あの蝶が、)
(蝶なんか見えませんよ、それは旦那様の気の勢でございますよ、)
(見えないことがあるか、あの黒い蝶が、あの蝶を、お前はなんと思つてるんだ、あれや、大変な奴だぞ、)
 養父はさう云つて四辺を白い凄い眼で見廻はしてゐたが、いきなり庭へ飛びおりた。
(あれ、旦那様、)
 乳母が驚いて庭におりたので、続いて飛びおりたところで、養父はぎらぎらする陽の光を潜つて板塀の傍へちよこちよこと小走りに走つて行つて、其所の花壇の朝顔に立てた女竹の一本を抜いたその女竹に絡んで咲いてゐた朝顔の萎れた紫の花が、一二枚の葉の付いた蔓と一緒になつて飛んだ。
(旦那様、旦那様、)
 乳母はその方へと追つて行つた。養父は乳母の方を睨みつけた。
(邪魔をするな、邪魔をすると承知しないぞ、これをそのままにして置いて、どうするつもりなんだ、馬鹿、)
 乳母は近くへ寄ることが出来なかつた。乳母の後へ行つた自分もどうすることも出来ないのではらはらして立つてゐた。
 養父は凄い眼をもう空間にやつて、怪しい物の影を覘ふやうにしてゐたが、やがてその覘がついたのか、手にしてゐた竹を振りあげてなぐりつけた。
(こら、)
 怪しい物の影はそれで飛んで行つたのか、養父はまた竹を振りあげながら空間を覘つた。
(こら、)
 怪しい物の影はまたそれたものと見える。
(しまつた、畜生、)
 養父はまた一足二足歩いて行つて、また空間をなぐりつけた。
(今度こそどうだ、)
 養父はなぐりつけた跡をちよつと見たが口惜しさうな顔をした。
(また逃げやがつた、畜生、逃がすものか、)
 竹はまた閃いた。
(これでもか、これでもか、こら、これでもか、)
 養父はもう見界なしに、そのあたりをなぐつて歩いた。
(こら、これでもか、これでもか、畜生、これでもか、)
 養父の叫び声が物凄く聞えた。
(若旦那、仕方がありません、無理にでも室へおあげしませう、)
 乳母が此方を向いて決心したやうに云つた。
(さうだね、仕方がない、押へつけやう、
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