自分も、さうするより他に仕やうがないと思つた。
(畜生、逃がすものか、逃がしてたまるか、この魔物、)
 養父は狂乱してゐた。
(私が掴まへますから、あなたも手を借してくださいまし、)
 乳母はいきなり走つて行つて、狂つてゐる養父の後から抱きすくめるやうに押へつけた。
(何をする、何をする、放せ、邪魔をするな、彼奴は俺の命を取りに来てる奴だぞ、馬鹿、俺の命を取られてかまはないのか、)
 養父は振り放さうともがいたが、病気で体が衰へてゐるので、一生懸命に押へつける乳母の手を振り放すことが出来なかつた。
(若旦那、早く、早く、)
 傍へまで行つてまごまごしてゐた自分は、その声に刺戟せられて、夢中になつて養父の両足を横から抱いた。その養父の口元に血が光つてゐた。
(放せ、何をする、彼奴をそのままにしておいて、俺を殺さすつもりか、)
 殻のやうに痩せた病人の体は、軽軽と離屋の方へと持ち運ばれた。
(放せ、貴様達は俺を殺すつもりか、あの黒い蝶をそのままにしてどうするつもりだ、)…………
 養父はそれから十日ばかりして死んでしまつた。義直はそれを考へて厭な気がした。
 泥溝に架けた石橋を渡ると、門燈のぽつかり点いた格子門があつた。義直はその門の扉を無意識に開けて這入つた。高野槙や青木の植はつた狭い暗い庭があつて、虫の声が細々と聞えてゐた。住居の玄関口はその奥にあつた。義直はその暗い所を通つて玄関の格子を開けた。
「若旦那でございますか、」
 待ちかねてゐたやうな女の声がした。
「僕だよ、もう何時だね、」
「お帰りなさいまし、ちようど十一時でございます、」
 小柄な頭の毛の薄い女が玄関へ出て来た。
「さうかね、ちよと友達の所へ寄つてたら、遅くなつた、叔父さんとこから、何か云つて来た、」
 義直は玄関の縁側を一足あがつたところであつた。
「お女中さんが夕方にゐらして、明後日の支度は好いかつて、おつしやいましたよ、お暑かつたでせう、」
「今日はそれほど暑くなかつたね、お寺へ行つたけれど、和尚さんが留守だつたから、また明日の朝行くことにして来たが、何時かお墓参りに行つた時に云つてあるし、行かなくつても好いが、叔父が喧しいから、ちよツと行つてこやう、叔父とこからはそれだけか、」
「それだけでございました。それぢや明日も一度お寺へゐらつしやいますの、それが宜しうございますね、やはり和尚さんに、ぢきぢきお逢ひになつておきますと、手違ひがなくて宜しうございますね、」
「さうだ、明日の朝、行つてこやう、それから、あれ、魚吉の亭主はどうした、」
 義直は路路心配してゐた程叔父が自分の帰りを待つてゐないらしいので安心した。
「夕方になつて一度、夜になつてもまたまゐりましたが、お帰りがないもんですから、朝また来ると行つて帰りました。人数も若旦那がおつしやつたやうに申して置きましたから、朝でも結構でございますよ、」
「さうかね、十八と云つたかね、」
「さうでございますよ、」
「折りのことも云つたかね、」
「申しました、」
「幾等ぐらゐと云つたかね、」
「一切で六円ぐらゐとおつしやつたでせう、これくらゐにおつしやつてらしたと申しておきましたよ、」
「さうか、それで好い、」
 義直は金のこともあるから、すぐ叔父の所へ行つてこやうと思ひだした。
「叔父さんのところへ行つてこやうか、」
「お疲れでございませうが、ちよつと行つてゐらつしやるが宜しうございませう、」
「さうだね、やつぱり行つてこやう、喧しいからな、」
「それが宜しうございますよ、では、お浴衣を出しませうか、」
「好い、このままで行つて来る、」
「さうでございますか、では、ちよつと行つてゐらつしやいまし、」
「行つてこやう、」
 義直は手にしてゐた麦藁帽子を女中の手に渡し、それから羽織を脱いでそれも渡した。
「まだ起きてるだらうな、」
「旦那様なら、まだお起きになつてをりますよ、」

          三

 義直は叔父の家の玄関のスリガラス戸の口へ立つて、右側の柱にあるベルのボタンをそつと押した。それはベルの大きな音のするのが恐ろしいやうに思はれたからであつた。彼はさうしてベルの音の微に響くのを呼吸をつめて聞いてゐた。
 玄関口に足音がして、それが間をおいて下駄の音をさした。ガラス戸には五寸四方くらゐの穴を開けてあつた。義直は女中が客の顔を確める必要のないやうにと、其所へ顔を持つて行つた。
「私です、遅くなつてすみませんね、」
 ちらと見えた背のすツきりした姿は太つた女中とは違つてゐた、義直は叔母ではないかと思つた。
「義直さんかね、遅いぢやないか、」
 それは叔母の声であつた。
「すみません、」
 同時にガラス戸ががらりと開いた。
「遅くなつてすみません、叔父さんは、もうお休みですか、」
「起きてます
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