よ、」
「さうですか、遅くなつたもんですから、」
 義直が内へ這入ると叔母は後を締めた。
「叔父さんは、どちらです、」
「お座敷の縁側にゐらつしやるんですよ、」
「さうですか、」
 義直は玄関へあがつて左の廊下へ出た。客室はその行き詰めの右側にあつた。其所は内庭に面した所で、雨戸を締めてない客室の前の廊下に、新らしい籐椅子を此方向きに置いて、白い浴衣を着た叔父が仰向きになつてよつかかつて、団扇を膝のあたりに置いてゐた。
「叔父さん、今晩は、」
 義直は呼吸が詰るやうに苦しかつた。
「義直か、」
「遅くあがつてすみません、」
「寺から何時帰つた、」
「五時頃に帰りましたが、途で友人に逢つたもんですから、其所へ寄つて、つい話し込んでゐる内に遅くなりました、」
 叔父はそれには返事をしないでごそりと体を起して、其所に蹲むやうにしてゐる義直を見おろした。と、其所へ叔母が麻の蒲団を持つて客室の中から来た。叔母は藍微塵の浴衣を着てゐた。
「此所へでもお坐りなさい、もう女中が寝ますから、お茶もあげませんよ、」
「もう結構です、遅いんですから、」
 義直はさう云ひ云ひその蒲団を貰つて坐つた。
「お前は明日の準備は好いのか、」
 叔父の冷たい石のやうな声が聞えた。
「あらかた出来ましたが、今日は和尚さんが留守でしたから、明日の朝、念のために、も一度行つてまゐります、」
「何時頃に行つた、」
「三時過ぎでしたよ、」
「三時過ぎと云ふと、三時半頃か、それとも過ぎてゐたのか、」
「さうですね、三時半になるかならんかでした、」
 義直は何度も頭の中でころがして本当のやうになつてゐることを云つた。
「さうか、お寺の方は、それで好いとして、料理の方はどうだ、」
「それもあらかた定まつてをります、」
「呼ぶ人の通知の方も好いんだね、」
「十八にしておきました。」
「さうか、準備の方はそれで好いとして、金はどうだ、料理から、お寺への布施から、それもいつさい好いのか、」
「その金ですが、誠にすみませんが、それをお願ひしたいと思つてをりますが、」
「その金つて、明後日の費用か、」
「さうです、」
「十円か二十円なら、手許にあるが、そんな沢山な金は無いね、ぜんたい幾等入るんだ、」
「二百円ぐらゐはかからうと思ひますが、」
「その二百円を俺に出せと云ふのか、」
「それをお願いしたいと思つてるんですが……」
「駄目だよ、そんな金は無いよ、お前には、もう百四五十円も行つてる筈だが、金をたゞ湧くものゝやうに思つてもらつちや困るな、宮原の財産がすこしあるとしたところで、そんなに見界なしに金を使つちや困るぢやないか、今度の金は一周忌の金なんだから、言い訳は立つやうなものゝ、なんでもなしに思つてゐちや困る、だいち、俺の身寄の者を養子にしておいて、それが無駄費ひをするのを黙つて見てゝは、藤村の方へ対してもすまないし、世間に対しても申訳がないぢやないか、」
 義直は何も云へなかつた。
「お前は近頃増長してゐるんだ、すこしは自分の身分も考へてみるが好い、お前はなんと思つてるんだ、ひとつお前に聞くことがあるが、お前は今日、三時半頃に中野のお寺へ行つて、五時頃に帰つて来て、友達に逢つて、友達の家へ寄つたと云ふが、その友達は何んと云ふんだ、」
 義直は吃驚してそつと叔父の顔を見た。義直は友人の名を出まかせに云ふより他に仕方がなかつた。
「小原君です、巣鴨の宮仲にゐる、一緒に早稲田に行つてた友人です、」
 叔父の手にしてゐた団扇がぱたぱたと音を立てた。
「ぢや行く時に、何人か連があつたのか、」
「ありません、」
「いけないよ、そんな嘘を云つたつて、駄目だよ、今日お前が、――公園のベンチで、変な女と凭れ合つて眠つてゐたところを、見て来た者があるんだ、馬鹿、何と云ふ醜態だ、女なんかに引つかゝつて、本を買ふとか、油絵の道具を買ふとか俺を騙してゐたんだらう、馬鹿、することにことを欠いで、昼間、女なんかと凭れ合つて、恥晒をして眠つてゐると云ふことがあるか、貴様の醜態を見て来た者が、黒い大きな蝶が来て、貴様の着てゐる帽子の上にとまつてたことまで、見てゐるんだぞ、馬鹿、なんと云ふ恥晒しだ、」
 惑乱してゐる義直の耳に蝶と云ふ言葉がはつきりと聞えた。
「貴様のやうな奴は、俺がなんと思つたつて駄目だ。家へ帰つて百姓でもしろ、馬鹿、蝶が来てとまつても判らないやうに眠つてゐると云ふことがあるか、馬鹿、田舎へ帰つて爺仁に話してみろ、貴様のやうな奴は、これからいつさい知らないから、さう思つてろ、馬鹿、」
 義直はふらふらと起ちあがつて、足にまかせて歩き出した。

          四

 義直は暗い坂路をあがつてゐる自分に気が注いた。其所には月の光があるでもなければ、また電燈の光もないのに、うつすらとした紗に包まれた
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