灯のやうな光があつて四辺がぼうと明るかつた。義直は此所は何所であらうかと思つて、ちよと注意した。右側は黒板塀になり、左側は樫か何かの斑らな生垣へ丸竹を立て添へて、それで垣根を結うてあつたが、その垣根の上にも塀の上にも何の木か木の枝が垂れてゐた。
ふと足許にやつた眼に、土の中から出てゐる自然石の面が見えた。それは土の中に埋つてゐて雨のたびに叩き出された物である。石はまだその向ふにも見えた。気が注いてみると自分の駒下駄の下にもその石の面があるらしく思はれた。義直は俺は彼の坂をあがつてゐるのだなと思つた。
……おでん屋の店には六七人の客がゐた。入口の右側になつた菓子台の背後を障子で支切つて、二枚の畳を敷いてある所には、その附近で先生で通つてゐる頬髯の生えた酔つぱらひの老人が、二人の学生を連れて来て酒を飲んでゐた。土間では左側の棚の方を背にして、真中に据ゑた台に向つて四人の者がゐた。それは近くの寄宿舎にゐる学生達であつた。
「もう好いの、此方は出来たんですよ、」
入口の左側になつたおでん台の前にゐた面長な女の顔が、小さな暖簾の間から見附けの室の方を覗いた。
「此方も出来てるんだよ、」
室のあがり口の長火鉢の傍に、此方へ肥つた顔だけ見せてゐる老婆と向合つて、滝縞になつた銘仙の羽織の背を見せてゐた女がちよと片頬を見せた。それは其所の姉娘であつた。
「ぢや行きませうね、ぐず/″\しないで、」
「ぐず/″\は此方ぢやないわよ、」
「此方でもないわよ、」
おでん台に近い方にゐた学生の一人が横槍を入れた。
「両方だよ……」
店の中は笑声で満たされた。その笑顔の中へおでん台の前にゐた妹が岡持を持つて出て来た。
「ぐず/″\しつこなしよ、」
「さうよ、ぐず/″\しつこなしよ、」
火鉢の前にゐた姉が正宗の二合罎の湯気の絡まつてゐるのを持つておりて来た。
「熱燗附の出前ですね、こいつは好い、家にゐて持つて来て貰ふ方が好いな、もつとも駄賃が高くなりますからね、」
先生は妹の方を見て笑つた。
「そんなことはありませんよ、おんなじですよ、」
「ぢや、いよ/\、家にゐて、持つて来て貰ふが好いな、かうなると独身者が羨ましい、」
「独身者が何故羨しいんですの。」
「美人に酒肴持参で来て貰へますからね、」
「さう、ね、」
「私もこれから何所かの二階間を借りますよ、そして、夜、好い時間を見て、註文に来ますからね、」
「では、お借りなさいましよ、私が持つてあがりますわ、」
「好いなあ、正宗の二合罎が一本とおでんが一皿で、美人が手に入りますからね、」
「安いぢやありませんか、」と妹は茶かしたやうに云つてから、岡持を右の手に持ち変へて、「では、ごゆつくり……、……行つてまゐります、」
妹が出ると姉が後から跟いて行つた。一枚開けてあるガラス戸の外には、赤い提燈が釣してあつて、その光が妹の横顔を薄赤くつら/\と染めて見たが、すぐ二人の姿は見えなくなつた。
「二合罎が一本に、おでんが一皿……」
学生の一人がかう云つて先生の方を見て笑つた。
「どうです、老人は旨いことを考へませう、」
「旨いんですね、」
老婆の声が聞えた。
「先生、そんなことを若い人に教へては困りますね、」
「さうですね、若い人には教へられないところでしたね、」
先生はちよと右の方に振返つて、火鉢の前に顔を出してゐる老婆を見た。
「さうですとも、困りますよ、」
先生は一緒に来てゐる学生の盃に酒の無いことに気付いたので、銚子を持つて注いでやつた。
「大いにやりたまへ、すこしも酔はないぢやないか、」
土間に腰をかけてゐる学生と老婆との間に、また笑ひ話がはじまつた。
先生は傍にゐる二人の学生を相手にして、何か云ひ/\これも笑つてゐた。
入口のどぶ板をそゝくさと踏む下駄の音がして何人かが入つて来た。それは妹が妙な顔をして、右の手で左の手先をきうと握り締めながら入つて来たところであつた。
「どうしたんです、」
妹はちよと冷たい眼を向けたまゝで、何も云はずにずん/\土間を見附の方へと歩いて来た。
「や、もうお帰り、」
先生は顔をあげたが、妹はそれにも何も云はないでずん/\と見附の小縁をあがつた。先生は呆気に取られてゐた。
「どうしたんだね、」
老婆が不審さうに聞く声がした。
「ああ、」
「どうしたんだね、お前、」
「掌をすこし切つたんですよ、あの坂で……」
「倒れたんだね、」
「さうよ、」
「なんで切つたんだらう、」
「倒れる拍子に、石の出つぱてる上へ手を突いたもんですからね、……これから岡崎先生へ行つて来ますよ、」
妹はさう云ひ/\右側の障子の蔭に隠れて行つて、箱か何かをかた/\と云はしてゐたが、やがて握り締めてゐた手を白いハンケチのやうな物で結はいておりて来た。
「切つたんですか、」
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