妹は今度は幾等か余裕があると見えて、ちよと淋しい笑声をした。
「ちよとね、」
「それはいけませんね、」
「ちよと岡崎先生へ行てまゐります、どうぞゆつくり、」
 妹は出て行きかけた。
「そいつは、いかんな、」
 先生はその場合冗談も云へないと云ふやうな顔をして、独言とも女に云ふとも判らないことを云つた。
「すぐ帰ります、」
 妹はそのまゝ出て行つた。
「お婆さん、何所で切つたんです、ねえさんは、」
 先生は振返つて老婆の顔を見た。
「彼の寄宿舎の坂ですよ、彼所はいけない所ですからね、」
 老婆は何か深い意味でもあるやうに云つた。
「どんな所です、」
「どんなつて、彼所は、昔からいろんなことを云ひますよ、」
「いろんなつて、どんなことです、」
「彼所は、遠藤さんね、彼の大きな構への、彼所の屋敷内でしたよ、路が出来たのは、私が子供の時でしたから、五十年位のもんですか、彼所は遠藤の旦那が、自分の云ふことを聞かないと云つて、女中を手打ちにした所だと云つて、遠藤の家内が死んだとか、馬が倒れたとか、いろんなことを云ふんですよ、娘などに云ふと、おつかながるから、黙つてるんですが、へんな所ですよ、」
「さうですか、なあ、」
「雨の降らない時でも、彼所の下を通ると、雨がばらばらと落ちて来たり、風の無い時でも、どうかすると、風が吹くんですよ……」
 義直はある刹那の光景を眼の前に描きながら、ふと頭の上に垂れた木の枝に眼をやつた。木の枝葉はぢつと垂れてゐて何の音もなかつた。
 路は右に折れ曲つてゐた。義直は其所此所に出てゐる石の面を数へるやうに踏んで行つた。しかし、彼は何のために其所を歩いてゐるのか何方へ行かうとしてゐるのか、それは自分でも判らなかつた。ちやうど眼に見えない物に支配せられて、永劫に前へ前へと行つてゐる両足の感じがあると云ふ有様であつた。
 坂路が尽きてちよと広い通路へ来た。それと同時に右側の黒板塀は無くなつて、やはり左側のやうに生垣に竹を添へて結はいた垣根になつた。その通路には門燈がぼつぼつあつた。若い一人の女の背後姿がすぐ眼の前にあつた。水色の地に紺の碁盤目のある袖の長い著物を着て、鼠色の光沢のある帯を締めてゐた。
 女は立ちどまるやうにして背後を振返つた。白い面長な顔には黒い澄んだ眼があつた。薄紅い唇は此方へ向つて親しみを送つてゐるやうに思はれた。義直はそれが浸みるやうに頭へ入つて来た。
 義直はきまり悪い思ひもせずに女に近寄らうと考へることが出来た。女は前向きになつて歩きだした。義直はそれに追ひ付かうと思つて歩きだしたが、割合に女の足が早いので一呼吸には追ひ付けなかつた。義直は気をあせらしたが、走ることは気が咎めるし、また走つて女を恐れさしてもいけないと思つたので、静かに歩くやうな容をしながら足を小刻みにして急いだ。
 女の足はまた止まつて白い顔を此方に見せた。黒い眼はぢつと此方を見詰め、口許には笑ひともなんとも云へない色を湛へてゐた。義直は今度こそ追ひ付いてやらうと思つた。
 二間ばかりの距離になつて女はまた歩きだした。女は沢山ある髪をエス巻のやうにして、その下の方を包むやうに茶色のリボンをかけてゐた。
 其所からは強い刺戟性を帯びた香料の匂が匂うて来た。義直の鼻にはその匂が溢れるほどに浸みた。
 女の後姿が何人かに似てゐるやうに思はれだした。義直は何人であつたらうと思つたが、それ以上は考へだせなかつた。彼女の顔がまた此方を振返つて、此方の行くのを待つてゐるやうに見えた。確にその薄紅い口元には笑ひがあつた。
 義直はつかつかと歩いた。その距離が一間ぐらゐになつた。と、女は歩きだしてみるみる二間三間と距離が出来て来た。義直はまた汗を出すくらゐに気を詰めて歩いた。
 女の体は右の生垣の角に隠れて行つた。其所には小さな路があつた。セメントで固めた狭い路は、もうセメントが剥げてどろどろとしてゐた。
 女との距離が縮まつてまた一間ぐらゐになつた。義直は思ひ切つて声をかけた。
「もし、もし、」
 女は振返つて口元の笑ひを見せた。義直は寄つて行つた。と、女の姿が見えなくなつた。義直は不思議に思うた。しかしそれはその路の出はづれであつて、女が右に曲つたからだと云ふことが判つた。義直もそれを右に曲つて行つた。
 女の白い顔が此方を見て、自分の追ひ付くのを待つてゐるやうな容を見せてゐた、義直も笑つて見せた。
「もし、もし、」
 女はそれが聞えないやうに歩きだした。義直は今度こそは女に追ひ付かうと思つて小走りに歩いた。しかし女の足は早くてやはり追つかなかつた。
 女はまた右側に見える人家の角を右に折れて行つた。それは何所か奥まつた家の入口のやうな所で、右側が広場になつて草が一めんに生えてゐた。右側には家の壁があつた。義直はそれに追ひ付かうとした。
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