五階になつた塔が朦朧として右側に見えた。義直は胸がつかへるやうに思つた。女の姿はその塔の壁に添うて立つてゐた。義直は何か自分の胸のあたりを支へる者があるやうな気がして歩けなかつた。
 黒い小さな影のやうな物が、女の横手の壁の方からちよこちよこと出て来て、それがいきなり女に飛びかかつた。義直は不良少年であらうと思つたので、走つて行つて引き放さうと思つた。
 人間の叫びとも獣の叫びとも判らない声がした。と、女に飛びかかつて行つた黒い影のやうな者は、猿か猫かの逃げるやうにつるつると壁に駈けあがつて、二階の屋根に登り、其所からまた上へと駈けあがつたが、すぐ見えなくなつてしまつた。
 義直は驚いて女の方を見た。五層楼の窓からぎら/\した光が落ちて来た。その光の下に女の姿は消えてしまつて、其所に一ツの黒い蝶がゐて、それがひら/\と飛んで行つた。
 義直の頭はぼうとなつてしまつた。

          五

 義直は夢中になつて歩いた。暗い坂路をおりたり、片側街になつた狭い所を通つたり、自動車のけたたましく往来してゐる所を通つたりしたが、場所と方角とを意識することは出来なかつた。
 軒に垂れた黄ろなカーテンに、内から灯の射したバーのやうな家が路の右側に見えた。義直はその時非常に咽喉が乾いてゐたので、曹達水でも飲まうと思ひだした。彼は足を止めてちよと中を覗いてみた。四枚入つてゐるガラス戸を左右に開けて、真中へ鏡のやうにてら/\光る衝立を立てゝあつたが、その右の端から見附の棚の下に立つてゐる女の洋服のやうな水色の着物が見えてゐた。左の壁の方を見ると若い男が壁の方を背にしてコツプを手にしてゐた。
 義直は右の方の戸の傍から入つた。右の壁の方へ寄つて黒い円いテーブルを二つ置いて、その向ふのテーブルには、鼻の高い支那人の著るやうな青い服を著た男が此方を向いて腰をかけてゐた。その青い服の右側には、其所の二階へあがる石のやうな白い階段が見えてゐた。
 左の方の壁際には長方形のテーブルを三つ据ゑてあつたが、その中のテーブルには、外から見た若い男と、それと向き合つて横顔の赤い日本人らしくない髪の毛を延ばした洋服を著た男が腰をかけてゐた。
「ゐらつしやいまし、」
 見付の棚の下には二人の女がゐた。一人は外から見てゐた水色の洋服を著た女で、一人は島田に結うて白いエプロンをかけた十六七にしか見えない女であつた。義直は何所へ坐つたもんであらうかとちよと考へたが、右の入口のテーブルが好いやうな気がするので、鼻の高い男を斜に見るやうにして階段の方へ向いて腰をかけた。
 それを見ると水色の洋服を著た女がやつて来た。その半靴を履いてゐる足音はすこしもしなかつた。
「ゐらつしやいまし、何に致しませう、」
 義直は曹達水よりも生ビールを飲んでみたいと思ひだした。
「生があるかね、」
「ございます、」
「では、生を一杯貰はふか、」
「はい、」
 洋服の女はそのまゝ引ツ返して左の壁の方に寄つた窓の口へ行つて、覗き込むやうにして、
「生を一杯、」
 と云ふと、中から洞穴の中からでも響いて来るやうなしめつぽい声で返辞をした。
 義直はをかしな声だなと思つてゐると、洋服の女はやがてビールを入れた琥珀色に透きとほつて見えるコツプを持つて来た。
「お待ちどほさま、」
「有難う、」
 義直はすぐコツプを取つて口にやつたが、冷々として如何にも心地が好いので、始んど飲み乾すぐらゐに一息に飲んで下へ置きながら、前にゐる客の方を見た。鼻の高い男は手を膝に置いてゐるやうにきちんとしてゐたが、睡つてゐるのかその眼はつむれてゐた。彼はふともう遅いから睡つてゐるだらうと思つた。
「もう幾時だらう、」
 義直はふと時計のことを考へた。そして自分はどうして此所へ来たらうと考へたが思ひだせなかつた。
「ぜんたい此所は何所だ、」
 義直はまた考へてみたがそれも判らなかつた。彼はいら/\した気になつて、片手の拳で頭をコツコツと叩いた。
「生を持つてまゐりませうか、」
 洋服の女が来て立つてゐた。
「さうだね、も一つ貰はうか、」
 義直はその後で無意識に前のコツプを持つて、僅かに残つたビールを飲みながら左のテーブルの方を見た。赤い横顔を見せた髪の毛の長い男は、はじめのやうにテーブルに前屈みによつかゝり、向ふ側の若い男もはじめのやうにコツプを口のふちへやつたなりでゐた。彼は不思議に思うて若い男の顔に眼をやつた。それは黒い眼を見せてゐたが人形の眼のやうに動かなかつた。
「お持ちどほさま、」
 洋服の女がコツプを持つて来た。義直は女がコツプを置くと若い男の方へちよと指さした。
「姉さん、彼のお客さんは睡つてゐるのか、さつきから、コツプを持つたまゝぢやないか、」
 女は振り返つて、
「さうですわ、ねえ、」
 と云つてから棚
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