註文に来ますからね、」
「では、お借りなさいましよ、私が持つてあがりますわ、」
「好いなあ、正宗の二合罎が一本とおでんが一皿で、美人が手に入りますからね、」
「安いぢやありませんか、」と妹は茶かしたやうに云つてから、岡持を右の手に持ち変へて、「では、ごゆつくり……、……行つてまゐります、」
妹が出ると姉が後から跟いて行つた。一枚開けてあるガラス戸の外には、赤い提燈が釣してあつて、その光が妹の横顔を薄赤くつら/\と染めて見たが、すぐ二人の姿は見えなくなつた。
「二合罎が一本に、おでんが一皿……」
学生の一人がかう云つて先生の方を見て笑つた。
「どうです、老人は旨いことを考へませう、」
「旨いんですね、」
老婆の声が聞えた。
「先生、そんなことを若い人に教へては困りますね、」
「さうですね、若い人には教へられないところでしたね、」
先生はちよと右の方に振返つて、火鉢の前に顔を出してゐる老婆を見た。
「さうですとも、困りますよ、」
先生は一緒に来てゐる学生の盃に酒の無いことに気付いたので、銚子を持つて注いでやつた。
「大いにやりたまへ、すこしも酔はないぢやないか、」
土間に腰をかけてゐる学生と老婆との間に、また笑ひ話がはじまつた。
先生は傍にゐる二人の学生を相手にして、何か云ひ/\これも笑つてゐた。
入口のどぶ板をそゝくさと踏む下駄の音がして何人かが入つて来た。それは妹が妙な顔をして、右の手で左の手先をきうと握り締めながら入つて来たところであつた。
「どうしたんです、」
妹はちよと冷たい眼を向けたまゝで、何も云はずにずん/\土間を見附の方へと歩いて来た。
「や、もうお帰り、」
先生は顔をあげたが、妹はそれにも何も云はないでずん/\と見附の小縁をあがつた。先生は呆気に取られてゐた。
「どうしたんだね、」
老婆が不審さうに聞く声がした。
「ああ、」
「どうしたんだね、お前、」
「掌をすこし切つたんですよ、あの坂で……」
「倒れたんだね、」
「さうよ、」
「なんで切つたんだらう、」
「倒れる拍子に、石の出つぱてる上へ手を突いたもんですからね、……これから岡崎先生へ行つて来ますよ、」
妹はさう云ひ/\右側の障子の蔭に隠れて行つて、箱か何かをかた/\と云はしてゐたが、やがて握り締めてゐた手を白いハンケチのやうな物で結はいておりて来た。
「切つたんですか、」
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