狐の手帳
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)比《ころ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十時|比《ころ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「女+朱」、第3水準1−15−80、56−1]
−−

       一

 幕末の比《ころ》であった。本郷の枳殻寺《からだちでら》の傍に新三郎と云う男が住んでいたが、その新三郎は旅商人《たびあきんど》でいつも上州あたりへ織物の買い出しに往って、それを東京近在の小さな呉服屋へ卸していた。それは某年《あるとし》の秋のこと、新三郎の家では例によって新三郎が旅に出かけて往ったので、女房のお滝は一人児の新一と仲働の老婆を対手に留守居をしていた。
 もう蚊もいなくなって襟元の冷びえする寝心地の好い晩であった。お滝はその年十三になる新一を奥の室《へや》へ寝かして、己《じぶん》は主翁《ていしゅ》の室となっている表座敷で一人寝ていたが、寝心地が好いのでぐっすり睡っていたところで、不思議な感触がするので吃驚《びっくり》して飛び起きた。枕頭に点けた丁字の出来た有明の行灯の微暗《うすぐら》い光が、今まで己と並んで寝ていたと思われる壮《わか》い男の姿を照らしていた。お滝はびっくりするとともに激しい怒が湧いて来たので、いきなりその不届者を掴み起そうとした。
「お前さんは、何人《たれ》だね、起きておくれよ」
 お滝の手が此方向きに寝ている男の肩に往ったところで、男は不意にひらりと起きて莞《にっ》と笑った後にむこうの方へ往った。
「何人だね、お前さんは」
 お滝は口惜しいので後から追って往ったが男の姿はもう見えなかった。お滝は不思議に思って眼を彼方此方にやって見た。
「おかしいな」
 障子も襖も開いた音がしないのにいなくなると云うはずはない。お滝は鬼魅《きみ》が悪くなって来た。
「姨《おば》さん、姨さん、……姨さん」
 お滝は仲働の老婆に起きてもらおうと思った。お滝はそうして引返して行灯を持って来て、ちょっとあたりを見た後に其処の襖を開けた。其処は茶の間であった。お滝は其処に男の姿が見えはしないかと思って、行灯の灯口を向けながらまた老婆を呼んだ。
「姨さん、姨さん」
 茶の間
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