の次の庖厨《かって》の室から睡そうな声が聞えた。
「姨さん、気の毒だが、ちょと起きてくださいよ」
がたがたと音をさして茶の間と庖厨の境の障子を開けて小肥満《こぶとり》のした老婆が顔を出した。
「何か御用でございますか」
「へんなことがあったからね」
老婆はお滝の傍へ来た。
「どんなことでございます」
「どんなって、寝てて、なんだかへんだから、起きてみると、人が寝ているじゃないかね、突き出そうとすると、跳び起きて往っちゃったが、何処も開けたようでないのに、いなくなったよ」
「そりゃ、このあたりの野良でございますよ、旦那がお留守になったものだから……、巫山戯《ふざけ》た奴ですよ、何処かそのあたりに隠れておりますよ、酷い目に逢わしてやりましょう、癖になりますからね」
老婆が前《さき》に立って室《へや》の中を彼方此方と見てまわったが、それらしい者の影もなかった。そして、最後に戸締を調べてみたが、これまた宵のままですこしも変ったことはなかった。
「不思議だね、たしかに壮《わか》い男がいて、起きて逃げる拍子に笑ったのだが」
「おかしゅうございますね」
お滝はうす鬼魅が悪いので、老婆の寝床を己《じぶん》の室へ持って来さして寝かせたが、もうべつに不思議な事はなかった。
翌晩になってお滝は昨夜《ゆうべ》のことが気になるので、表座敷と背中合せになっている新一の寝ている奥の室へ老婆を寝かせた。
そのうちに平生《いつも》の癖で長くは睡っていられない老婆が眼を覚したところで、お媽《かみ》さんの室にものの気勢《けはい》がした。老婆はまた昨夜の奴が来たのではあるまいかと思って、頭をあげて宵から隙かしてあった襖の隙間から覗いた。縁側の方を枕にして寝ているお媽さんと並んで寝た男の頭が行灯の光に見えた。
「また来やあがった」
老婆は起きあがるなり、襖を開けて表座敷へ勢込んで入った。と、怪しい男は急に跳び起きて左の茶の間の方へ往った。
「この野郎、逃げようたって逃がすものか」
老婆はその方へ走って往った。その物音にお滝が眼を覚して起きあがった。
「や、また逃げやがった、お媽《かみ》さん、また逃げたのです、起きてくださいよ」
男の姿は掻き消すようになくなってしまった。其処へお滝が行灯を持って来た。
「お媽さん、知ってたのですか」
「知らなかったよ、なんだろうね、うす鬼魅が悪い」
「そうで
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