し》が落ちていた。蹲《しゃが》んで拾って空の明るみに透して見ると、鳳凰の形にこしらえた物であった。
 興哥は、これはきっと慶娘の落したものだろうと思って、追っついて渡そうと思って往きかけると、もう肩輿は中門を入って、それと同時に門の扉がぴっしゃりと締った。
 興哥は翌日下男から渡してもらおうと思って、その釵を持ったままで引返して、小斎の中へ入り、燈をつけて拾った釵をその光に見直した。そして、慶娘はどんな女になっているだろうと思った。興娘が四つか五つで慶娘は生れたばかりの赤ん坊であったことを、おぼろげに覚えている興哥は、時折慶娘に逢ってみたいと思うことがあっても、礼儀正しいそうした家では、遠くから透し見ることすらできないでいた。興哥の好奇心はやがて興娘の方へ往った。おぼろげに覚えている幼顔そのままの興娘の姿が微に思い出された。彼はまた悲しくなってきた。悲しみに捉えられた彼の前には、渓底を見るような微暗い前途が横たわってみえた。俺はこの先どうなるだろう、興娘が歿くなっているのに、いつまでもここに厄介になっていることはできない。身を立てようと思ったところで、それもできるかどうか判らない、俺は何という不幸な男だろうと思った。彼は両手で額を押えて俯向いた。
 入口の扉《と》をことことと叩く者があった。興哥は顔をあげた。
「どなた」
 しかし、戸外《そと》では返事をしなかった。興哥は何人《たれ》だろうと思って考えた。と、またことことと扉を叩きだした。
「どなたです」
 戸外ではまた返事をしなかった。興哥はがてんがゆかなかった。扉がまたことことと鳴った。
「どなたです、お入りなさい」
 戸外では依然として返事をしない。興哥は不思議でたまらないので、起って往って扉を開けた。そこには若い綺麗な女が立っていた。興哥は驚いて眼を瞠った。
「あなたはどなたです」
「わたし、慶よ、さっき、肩輿の中から釵を落したのよ、あなた、あれを拾ってくだすって」
「拾ってあります、すぐ追っ駈けて往って、お渡ししようとしましたが、御門が締りましたから、朝お届けしようと思いまして、持っております」
 興哥は卓の傍へ往って釵を取ろうとした。慶娘は引き添うように随いて往って、興哥が釵を持って振り返った時には、二人の体はぴったり並んでいた。
「あなた」
 釵を持って興哥の手首に慶娘は白い細そりした両手をかけた。興哥は当惑してしまった。
「お嬢さん、甚だなんでございますが、私はお父さんに大恩がございます、もしお父さんに、こうしている処を見られましたなら、申しわけのないことになります、どうか放してください」
 興哥は俯向いたなりに言った。ふわりとした慶娘の手は放れなかった。
「私はお父さんに大恩があります、どうか私のために帰ってください」
「帰りませんよ、わたしをここへ連れてきたのは何人です、あなたじゃありませんか、わたしは帰りませんよ」
 慶娘は不意に大きな声をしながら、興哥の手首を握った手に力を入れた。興哥はこんな声が聞えては大変だと思った。
「困りますよ、そんなことをおっしゃっては、お父さんの耳へ入ったら、大変じゃありませんか」
「でも、あなたが連れてきたのじゃありませんか、連れてきといて、帰れとはひどいじゃありませんか」
 慶娘の声は一層大きくなった。
「そんな、そんな大きな声をされては困ります」
「それが困るなら、わたしと彼方へ参りましょう、お厭ならこれから帰って、あなたが、わたしを連れ出したと、お父さんに言いつけますわ」
 興哥は女がなすがままになるより他に為方《しかた》がなかった。彼は女の詞《ことば》のままに次の室へ往った。

 慶娘はその晩から夜になるときて朝早く帰って往った。その間に一ヶ月半位の時間が経った。
 ある夜、平生《いつも》のように興哥の許へ忍んできた慶娘が囁いた。
「今日までは、何人にも知れずに済みましたが、このさき、どんなことで露われるか判りません、もしそんなことになると、お父さんはああいったような厳格な方だから、どんなに怒るか判りません、私は覚悟をきめておりますから、引き分けられて、一室に監禁せられても諦めますが、あなたの御身分にかかわりますから、二人でどこかへ往って、人の目に著かない処で、静かに暮そうじゃありませんか」
「そうです、私もそう思っていたのですが、これという知己《しりあい》の者がなくて困っております、ただ私の家にもと使っていた金栄《きんえい》という男が、鎮江で百姓をしているということを父から聞いてますが、それは義理がたい男だそうですから、それでもたよって往ってみようじゃありませんか」
 二人はその朝の五更の頃、そっと家を逃げだして、瓜州《かしゅう》から揚子江の流れを渡り、鎮江府の丹陽《たんよう》へ往って、目ざしている金栄の家のことを
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