は当惑してしまった。
「お嬢さん、甚だなんでございますが、私はお父さんに大恩がございます、もしお父さんに、こうしている処を見られましたなら、申しわけのないことになります、どうか放してください」
 興哥は俯向いたなりに言った。ふわりとした慶娘の手は放れなかった。
「私はお父さんに大恩があります、どうか私のために帰ってください」
「帰りませんよ、わたしをここへ連れてきたのは何人です、あなたじゃありませんか、わたしは帰りませんよ」
 慶娘は不意に大きな声をしながら、興哥の手首を握った手に力を入れた。興哥はこんな声が聞えては大変だと思った。
「困りますよ、そんなことをおっしゃっては、お父さんの耳へ入ったら、大変じゃありませんか」
「でも、あなたが連れてきたのじゃありませんか、連れてきといて、帰れとはひどいじゃありませんか」
 慶娘の声は一層大きくなった。
「そんな、そんな大きな声をされては困ります」
「それが困るなら、わたしと彼方へ参りましょう、お厭ならこれから帰って、あなたが、わたしを連れ出したと、お父さんに言いつけますわ」
 興哥は女がなすがままになるより他に為方《しかた》がなかった。彼は女の詞《ことば》のままに次の室へ往った。

 慶娘はその晩から夜になるときて朝早く帰って往った。その間に一ヶ月半位の時間が経った。
 ある夜、平生《いつも》のように興哥の許へ忍んできた慶娘が囁いた。
「今日までは、何人にも知れずに済みましたが、このさき、どんなことで露われるか判りません、もしそんなことになると、お父さんはああいったような厳格な方だから、どんなに怒るか判りません、私は覚悟をきめておりますから、引き分けられて、一室に監禁せられても諦めますが、あなたの御身分にかかわりますから、二人でどこかへ往って、人の目に著かない処で、静かに暮そうじゃありませんか」
「そうです、私もそう思っていたのですが、これという知己《しりあい》の者がなくて困っております、ただ私の家にもと使っていた金栄《きんえい》という男が、鎮江で百姓をしているということを父から聞いてますが、それは義理がたい男だそうですから、それでもたよって往ってみようじゃありませんか」
 二人はその朝の五更の頃、そっと家を逃げだして、瓜州《かしゅう》から揚子江の流れを渡り、鎮江府の丹陽《たんよう》へ往って、目ざしている金栄の家のことを
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