るのを待っていた。
「今度はお種さんの番じゃ、はよう入るがいい、良い人が何処ぞで待ちよる」
 お種の後から来ている老人がからかいながら云った。すると風呂桶から出ようとしている婦《おんな》が云った。
「お種さんのような女《むすめ》を待たいで、何人《だれ》を待つもんか、お種さんはよう来い」
 お種はそこで湯に入って帰りかけた。霧がかかって月の光がぼんやりしていた。門口の果樹園まで帰ったところで、其処の暗い処からひょいと出て来た者があった。
「お種さん」
 それはまぎれもなく猪作の声であった。お種は厭な者に逢ったものだと思った。
「お種さん、そんなに嫌うもんじゃないよ」
 お種はしかたなしに足を止めた。
「嫌やせんよ」
「嫌わなけりゃ、私《あし》の話を聞いてもらいたい」
 背のずんぐりした角顔の壮佼《わかいしゅ》の顔があった。
「どんな話」
「べつにどんな話でもない、こちへ来てみい」
「何処へ往く」
「此処でいい、もすこし中へはいり、人に見える」
「いやよ、そんな処へ往くは、用事があるなら翌日《あした》の午聞く」
 お種は恐ろしくなったので走って逃げようとした。と、男の手が蛇のように体にまき
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