脚下に浸してあった浅黄の股引を執って洗いだしたが、右の肩のあたりが硬ばって苦しいのでちょっと手を休めたところで、
「お種さん」
と、云って己《じぶん》の名を呼ぶ声がした、お種は何人《だれ》だろうと思って考えてみたが、耳なれない声であるから猪作でもなければ伝蔵でもないと思った。お種はその声が猪作でないことはうれしかったが、伝蔵でないと知った時にはものたりなかった。お種は猪作でもない伝蔵でもないとしたら何人が呼んだろうと思いながら、見るともなしに水の上に眼をやった。朝陽を受けて水に映った己《じぶん》の影の上に、その時大きな物の影がふうわりとかかったが、それは人間の手のような、また見ようによっては蟹の鋏のようにも見える鬼魅《きみ》の悪いものだった。お種ははっとした。
「お種さん、お種さん」
と、初めの声がまた呼んだ。お種は気が注《つ》いて揮《ふ》りかえった。紫色の振袖を着た十五六の女のような少年が道の上に立っていた。お種は一眼見て何処かのお寺の稚児さんだろうと思った。
「お種さんは、私を忘れたの」
と、少年はにっと笑った。お種はどうしてもその少年に見覚えがなかった。お種はしかたなしに、
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